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2007年4月〜2008年3月までの雑感

2006年4月〜2007年3月までの雑感

2006年3月までの雑感



2007年3月21日    ボランティア拒否宣言


■面白い詩を見つけました。花田えくぼさんの詩(ボランティア拒否宣言)。もう20年前の詩ですが、皆さんはどのように感じますか? 私自身もすこしですが、理解が出来るような気がします。私が、職業訓練校に行きたい、車の免許を取得したい、結婚したい、起業したい、市会議員に立候補したい等々両親に相談すると「全て反対」されました。その都度「親子の縁を切ってきました」つまり、人間としての主体性を主張すると、必ず波風が立つことになります。よく、「互助、公助、自助」と言われますが、これら全てはサービスを受ける側の意思確認が前提となった行政策定が基本であって欲しいものです。



ボランティア拒否宣言
                        《花田 えくぼ》


それを言ったらオシマイと言う前に 一体私に何が始まっていたと言うの
何時だってオシマイの 向こうにしかハジマリは無い
その向こう側に 私は車椅子を漕(こ)ぎ出すのだ


ボランティアこそ 私の敵 私はボランティアの犬達を 拒否する


ボランティアの犬達は 私を優しく自滅させる
ボランティアの犬達は 私を巧(たくみ)に甘えさせる
ボランティアの犬達は アテにならぬものを頼らせる
ボランティアの犬達は 残された僅(わずか)かな筋力を弱らせる
ボランティアの犬達は 私をアクセサリーにして街を歩く
ボランティアの犬達は 車椅子の蔭で出来上がっている
ボランティアの犬達は 私を優しい青年達の結婚式を飾る哀れな道具にする
ボランティアの犬達は 私を 夏休みの宿題にする
ボランティアの犬達は 彼らの子供達に観察日記を書かせる
ボランティアの犬達は 私の我がままと頑(かたく)なを確かな権利であると主張させる
ボランティアの犬達は ごう慢と無知をかけがえのない個性であると信じ込ませる
ボランティアの犬達は 非常識と非協調をたくましい行動だと煽りたてる
ボランティアの犬達は 文化住宅に解放区を作り自立の旗を掲げてたむろする
ボランティアの犬達は 私と社会の間に溝を掘り幻想の中に孤立させる


私はその犬達に尻尾を振った
私は彼らの巧みな優しさに飼い慣らされた
汚い手で顎(あご)をさすられた
私はもう彼らをいい気持ちにさせて上げない
今度その手が伸びてきたら
私は きっとその手に噛みついてやる


ごめんね 私の心のかわいそうな狼 少しの間 私はお前を忘れていた
誇り高い狼の顔で オシマイの向こう側に 車椅子を漕ぎ出すのだ


「おおさか行動する障害者応援センター機関紙『すたこらさん』1986年10月号から引用」


2007年3月17日   選挙活動で印象に残った人


★佐土原と西都の境界の集落を訪問したとき、車椅子の方が目に留まりました。沢山の話しをしましたが、奥さんに「何かお困りのことはありませんか?」とお尋ねしたところ、「何も在りません、主人が一生懸命介助してくれます」と話してくださいました。「あなたも大変でしょうけど、県民の為に体に気をつけて頑張ってください」と逆に温かいお言葉と飲み物まで差し入れて頂きました。本当に感謝でした。


★恒久地区のある家庭を訪問したとき、奥さんから見せて頂いた「人形」です。最初は趣味で作っておられたようですが、注文を頂くようになって、今は、実益と趣味を兼ねて作っておられるとのことでした。昨夜も午前2時までかけて頑張っておりました。と話されていました。実に精巧に作られていて、欲しくなりました。


★私は時々ですが、「自分より苦労している人間はいない」と幻覚痛でうなされている時、思うことがあります。しかし、沢山の方々と知り合う中で、私の甘さが打ち砕かれる事がよくあります。ごく最近だけでも、▲重度身体障害児を必死で支えておられる奥さんにお会いする事が出来ました。▲股関節から切断されていながら、4人の子供さんを立派に育て上げられた方にもお会いしました。その方も、私と同様に幻覚痛に悩まされておられるようでした。▲家庭菜園で野菜を収穫されていた方は、ご主人を第二次世界大戦の激戦地硫黄島で戦死したことを話してくださいました。残された子ども3人を女手一つで育てあげられたようです。「ご結婚は?」と私がお伺いすると「3人の子持ちの私と結婚してくれる男なんか居るもんか」と豪快に笑って応えられました。▲豆腐屋さんを訪問したとき、右手が不自由な80歳前後の方の話しを窺う事が出来ました。3歳の頃、熱湯を浴び、全身やけどにをしましたが、当時は、家庭が貧しく「口減らし」の対象として扱われました。幸い命だけは助かりましたが、治療はしてもらえず後遺症がのこりました。しかし、一生懸命頑張って豆腐屋さんを起業し、約60年になります。今では、近所の方々の注文分のみを製造しています。理解ある女性と結婚もする事も出来ました。幸せな人生でした。と話して頂きました。


☆4年に一回の選挙を9回経験しています。県民の目線で行政を見る貴重な時間を今過ごしています。行政対応が是非とも必要な方。あるいは、自分の精神力で立派に自立されている方。地域の温かい理解の中で立派に自活できている方。様々です。「政治を真に必要とされている方々」の思いを行政反映のために頑張ろう!と思いながら、体に鞭打って歩いている日々です。
3月19日 UP
2007年3月15日    うちの家族は4人


 選挙活動をしていると様々な感動と触れ合いがある。私は中でも子どもと遊ぶのが好きである。
 団地を廻っていると子どもたちと出くわす事がある。必ずといっていいほど子どもたちから「あ、あのオッちゃん足がない」と言いながら寄って来る。「どうして足がないの」と聞いてくる。私は、必ず「オッちゃんはね、子供の頃、信号を赤で手を挙げずに渡ってしまった、そしたら、トラックにはねられた」ということにしている。「信号は何色になれば渡っていいの?」と聞くと、元気な声で「青!」と返ってくる。「あたり」と暫し話しが弾んだ。
 すると、自転車に乗った一人の5歳児が新に加わった。新米の5歳児が「オッちゃん、ぼくの自転車とオッちゃんの自転車(車いす)とどっちが早いか競争しようか」と言ってきた。「分った。オッちゃんがヨーイドンと言うから、それからスタートだ。分かったか」というと、「分った」と返事があった。
 3人で競争が始まった。当然、私が「ドン」というので一番は私である。何回走っても一番は私である。多分こんな筈ではないと思っていたらしい。何回挑戦しても負けるので「疲れた」と言って止めてしまった。私も選挙運動があるので「オッちゃん帰るね」と言って車に乗ると「すげー、運転できるっちゃ」と驚いた声が聞こえた。
 車の助手席に先程頂いたみかんが2個あった。「疲れたやろ、これあげる」と二人の子どもに渡すと、一人の子どもが「オッちゃん、うちの家族は4人なんだけど」
 私は思わず「なんとあつかましい子どもだ」と思ってしまったが、よく考えてみると、この子の家族は、「皆で分ける」ことが習慣になっているに違いないと思った。お母さん、お父さん、妹かお兄ちゃんもいるヨ、と言いたかったのかなと思った。心やさしい子どもだと感心した。


2007年3月2日    定年退職おめでとうございました。そして、ご苦労様でした。


 佐土原を訪問したとき、用事が済み何時ものように車いすを車に積み、挨拶をしようと玄関を見ると奥さんが私の様子を見ておられた。出発しようと思っていたところ近寄ってこられました。「運転ができるのですか?」と問いかけられ「はい」と返事をすると、「いいですね」と言われました。「どうかされましたか?」とお伺いしたところ、目に涙を一杯ためながら話し始められました。
 私の主人は学校の教師をしていました。しかし、40代後半に難病を罹患し、日を重ねるごとに体が悪化し、車の運転も出来なくなりました。主人の体を支えながら、私が運転をして学校まで送っていましたが、50歳となった頃には階段も一人では上がる事が出来なくなりました。私が体を必死で支え、転倒して骨折させないように、それは大変な苦労の連続でした。中でも、雨の日は地獄でした。何時雨が降っても対応できるように、常時車の中にはモップと雑巾20枚、扇風機は積んでいました。「私には、何故か、という理由は理解が出来ますが、健常者には理解が出来ないかもしれません」松葉杖の先端には、乾燥している日は滑り止めの為にゴムが着いていますが、一旦雨が降って階段、廊下等が濡れているとスリップし、転倒し易くなります。万が一、階段で転倒すると死に至る事もあり、恐怖そのものでした。転倒防止の為、雨の日は主人を車から降ろす前にまず、階段、廊下を雑巾でしっかりと雨を拭取ります。そして、廊下は雑巾で拭き、後扇風機で乾かした後主人を車から降ろしていました。
 一ヶ月経った頃には、私のしている事を理解してくれた先生達も自宅から扇風機を持ってきて、廊下を乾かしてくれる様になりました。廊下に並んだ扇風機を見て涙が止まらなくなったこともありました。本当に感動しました。本当に嬉しかった。一杯感謝しました。人の温かさに身が震えました。
 主人から聞いた事でありますが、生徒たちが異口同音に言ってくれた中に「先生からは、教科の授業だけでなく、生きる事、働く事、がんばる事等の大切さ、厳しさ、喜び全てを学んだ」と話してくれたことがありました。私は、ただ主人の「教師を続けたい」との願いを叶えさせたいとの思いで必死に頑張りました。そして、今から6年前に定年を無事迎えることが出来ました。と一気に話して下さいました。
 この話しをお伺いして、18年度退職者見込みは、定年退職者138人に対して定年前総退職者は153人と逆転しています。また、教育職員の精神疾患による休職者は、平成17年度が42名となり、前年度と比較すると11名の増加、10年前の約2倍となっています。何が原因かは一言では語れないと思いますが、「人の温かさの欠如」が大きな原因ではないかと思います。
 「奥さん、素晴らしいお話ありがとうございました。」


2007年2月13日   選挙活動で知り合った方々の色々人生(2)


 好隣梅祭りに参加した。毎年この祭りには参加している。今年の人の多さにはビックリした。どうにか目的地についたのはいいが、昼食を考えていたが、殆どが売り切れでお預けを覚悟したが、ご好意によって分けて頂いた。お腹の方も満足し、帰宅を考え歩いていると、「外山さんだ」との声に振り向くと、「お願い、トイレが一つしかない、何とかして」と2人の女性が口々に訴えられた。廻りの15人程の方々も「そうだ」といわんばかりに頷いておられた。
 話を伺うと、初日も沢山の方が行列を作っておられたそうだ。確かにこれだけ沢山の方がお見えになっているのに簡易トイレの事前設置が何故できなかったのか、駐車場の整備も進んでいない、障がい者駐車場・トイレもない等々改善が図られていない。「九州一の保健・福祉都市」を目指している宮崎市である。早速連絡をし、改善を求めた。
 保育所の保育士さんから実家の両親を紹介して頂き、訪問をした。お会いすると「本物の外山さんだ、こんな田舎まで来て頂きありがとうございます」と逆に感謝の言葉を掛けて頂き恐縮した。お母さんの話は「どんなに苦労してでも、私たち夫婦が中学校しか出ていないので、子供(2人)だけは大学に出したいとの思いで父ちゃんと頑張ってきた」と話された。その娘さんも念願の保育士になり、結婚し幸せな生活を送っているようである。
 しかし、御主人は数年前脳梗塞で後遺症を持つこととなった。奥さんは子どもたちに負けてはとの思いから、一人で17頭の牛を飼育されていた。「女は子どもを産む機械である」といった国務大臣発言が問題となっているが、私から言わせれば、「女性は、地域を支える人である」ではないか。「男性は、さしずめ寄生虫かな」私の場合ですが。帰り際に沢山の椎茸のお土産も頂いた。本当に感謝である。
 イチゴ農家は今が収穫の最盛期である。今頃になると東京の孫に毎年イチゴを送っている。今年もと思って生産農家にお邪魔した。まさしくフル生産の真最中といった所であった。2ケースを購入した。何時ものことであるが、買った量に匹敵するほど頂いた。農家の近くにある宅急便で早速東京の孫宛送った。
 帰宅すると、玄関に桜草の花が一杯咲いた鉢が置いてあった。何方からかは皆目解からない。お礼の連絡もできない。こんな時が一番困る。推察で電話をすることも出来ない。
 この他、沢山の野菜等々頂く。お断りすることもできない。最近では喜んで頂く事にしている。私のお返しは、議会活動にしっかり取り組むことであると言い聞かせている。本当にたった一日であるが、様々な出会いと感動を頂いた。人間万歳である。


2007年2月12日   選挙活動で知り合った方々の色々人生(1)


 合併で選挙区となった高岡・田野・佐土原は初めて訪問する地域が多い。紹介を受け訪れた地域は開拓集落と伺っていたが、正直「こんな所に人が住んでいるのか」と思えるところに人家が数件あった。
 暫し話をした後、「何が一番お困りですか?」と伺うと、「通院が大変だ」と返ってきた。「以前は、要支援なら病院から通院車が出ていたが、今はなくなった。週一回タクシーで通院している。一回が往復6,000円も掛かる」、もう一人の方は、「息子に会社を休ませて連れて行ってもらっている」とそれぞれ訴えられていた。「そんなに大変なら、同居されたらどうですか?」とお伺いすると「いやだ、ここが一番好きだ、息子に迷惑かけたくない」と強く否定された。
 県土の均衡ある発展、行財政改革、医療・保健・福祉、人の生きかた等々考えさせられた。
 同様に小集落を訪問した。移動しようとしていたら一人お婆ちゃんが焚き火をされていた。話を聞いてみると「若い頃に失敗し、一人住まいである。子供は一人いる。80歳を既に過ぎている。最近は早く死にたいとばかり思っている」等々ゆっくり途切れることなく話された。全てを記述することはできないが、お婆ちゃんに「お母さん、お父さんがこの世の中で生きているだけで、子どもにとって、素晴らしいことだ」と叫びたい衝動に駆られた。
 知的障害者の作業所を訪問した。約15年前は作業所補助制度はなかった。保護者と一緒に補助制度を訴えてきた。この作業所も10年ほど前から制度化された補助制度によって障害特性に応じた授産種目で、8名の登録者によって運営されている。夏祭り等も毎年開催され、地域に根ざした運営がされている。しかし、自民党・公明党が障害当事者・保護者等の反対を押し切って強行した障害者自立支援法施行に伴って運営が非常に厳しくなったと伺った。
 政府与党は、法律施行後実態の厳しさを各方面から指摘を受け、制度の改正を考えている様だが、この改正は参議院選挙対策上の改正である、と一般的に見られている。今後の推移に注視する必要がある。
 この方々の素晴らしい笑顔を決して奪ってはならないと強く感じた。


2007年1月30日   がけっぷち犬に飼い主


 我が家の愛犬の名前は「ブッチ」である。当然であるがテレビ・新聞に出演・掲載されたことも無い。我が家の家族の一員になった理由は単純である。近くの動物病院に「貰ってください」の広告に横に4〜5匹の子犬(雑種)が並んでいた。暫くすると、子犬は愛犬家に夫々貰われていったが、一匹だけはどうしたことか何時までたっても貰い手がいない。
 ある日、家内が前足の不自由な子犬を抱えてきた。「どうした?」と聞くと「ペット病院の子犬」と答えた。あ、そうか。何時までたっても引き取り手が無い理由が理解できた。これで我が家には先住犬のマルチーズ「チャッピー」と2匹となってしまった。
 先住犬の「チャッピー」は5年ほど前に他界し、今はブッチ(10歳)のみとなってしまった。

 ところで、報道によると、【徳島市で昨年11月、高さ約70メートルのがけから救出された雌犬、通称「がけっぷち犬」の飼い主を決める譲渡会が28日、保護していた徳島県動物愛護管理センターであり、抽選で同県つるぎ町の主婦が飼い主に決まった。救出から2カ月間、世話をしてきた方は「打ち解けるには時間がかかる。ゆっくり信頼関係を築いていってあげてほしい」と話した。抽選には県内外から11人が参加。救出現場近くで保護され、顔つきや毛の色がよく似ているため姉か妹とみられている雌犬の引き取り手も募集したが、希望者は現れなかった】とあった。
 ここでどうしても分らないことは「何故、テレビに出た犬だけ人気が集中し、そうでない兄弟(?)の犬は希望者がいないのだろう」ということである。テレビが映し出す光景を私も何回となく見た。「頼むから助けてくれ、動くな」と祈ったものである。一方、放映されることが少なかった兄弟達も同様に空腹と危険の中で大変な思いをしたことが容易に推察される。だのに何故か、今もって理解できない。
 いや、むしろ愛護管理センター内で、獣医師の城万里さんによって育まれる方が、あの兄弟は幸せかもしれないと思った。


2007年1月23日    瓜生野八幡神社のクスノキ群


 自然を前に人間が如何にちっぽけな生き物であるか、瓜生野八幡神社のクスノキの前に立って感じた。人間長生きしたって100年である。
 このクスノキは解説板値によれば樹齢800年、幹周25m、樹高25mとある。浅学非才且つ単純な私は、樹齢等は多分日本一であろうと勝手に思っていたが、調べてみるとまたまた驚かされた。瓜生野八幡神社程度のクスノキの樹齢は、さほど珍しいものではないらしい。しかし、境内にこれだけのクスノキの巨樹が密生(大小合わせて16本のクスノキの群落)しているのは珍しく、天然記念物の価値は十分あるということが分った。
 ところで日本一のクスノキは、昭和63年の環境庁(当時)調査によると、鹿児島県姶良郡蒲生町の八幡神社の境内にそびえるクスノキで、樹齢(伝承)1500年、幹周24.220cm、樹高30mとなっている。
 1500年前といえば、三世紀末からはじまり約300年間続いたとされる古墳時代である。何れにしても、1500年間も生き続けて来たこれら巨木は、人間社会をどう見ているのだろうか。談合、虐待、いじめ、自殺、殺人、戦争等々いやな事があまりにも多すぎる私たちの社会に何を感じているのであろうか。きっとおろかな生き物だとあきれているに違いない。
 巨木の前に立って、限りない安らぎを感じながら、精一杯生き続けたいと思った。


12月24日    私の故郷(日南市宮浦)


 突然、故郷に行ってみたいという衝動に駆られる時がある。宮崎から約1時間海岸線を南下すると私の故郷日南市宮浦に着く。子供の頃は保育所、小学校、中学校も宮浦にあった。よく海山川で遊んだ。沢山の魚が泳いでいた。冬になると時々ではあるが一面凍結し、氷の上に「つくら」が死んでいた。子供心にどうして氷の上で魚が死んでいるのか不思議でならなかった。この魚は水面からから飛び跳ねて遊んでいる光景を目にしていた。それで、間違えたんだろうと勝手に解釈していた。実は今でも本当の理由は知らない。
 こうして、故郷に立ってみると、昔の思い出が次々と走り去っていく。ツワブキ取りで一日過ごしたこと、授業中にも関わらず、先生が川に投げていた釣竿に魚が掛かったらしくピンと張っている。「先生、魚が釣れちょるよ」と大声で先生に報告していたこと(私の当番)。ポンカン山の開墾のため、冬休み、夏休みは毎日手伝いをさせられたこと。タブの葉取り(線香の原料)、杉の穂取り等々遊ぶ時間って無かった。当然、勉強する時間も無かった。それでも不幸っていう感覚も無かった。
 最近、無性に昔が懐かしく感じられる。あの頃にもう一度戻れたらいいなって思う。
 今は、父も他界し、母は、痴呆で私のことさえ覚えていてくれない。寂しいものである。

  室生犀星(むろうさいせい)
  ふるさとは遠くにあって思うもの
  そして悲しく歌うもの
  例え
  落ちぶれて 異土の乞食になったとしても
  帰るところでは無いだろうなあ
  ひとり都の夕暮れに
  ふるさと思い涙ぐむ
  その心をもって
  遠いみやこに帰りたい
  遠いみやこに帰りたい


12月9日     きっといいことがある


 4年間の任期が「長いか短いか」の話題が良く出される。私は、丁度いいと思う。落選中の4年間、市内全域をゆっくり歩いた。当選後、少しの時間があると以前訪問したお宅を訪れては四方山話をする。
 5年前、猛烈な暑さのある日、車椅子が暑かろうと傘を立掛けてくれたお婆ちゃん宅を訪問した。あいにく留守だった。残念と思いながら帰ろうとしていると、背後から「外山さん」と呼ぶ声があった。振り返ってみると、「母は畑で仕事をしています、会って下さい」と嬉しい話であった。早速、行ってみると、温かく迎えていただいた。お礼の挨拶、今までの報告、家族の現状等を告げて帰ろうとすると「野菜を」との言葉に甘えて沢山の野菜を頂いた。共に元気で、再会でき心から嬉しく思った。
 昔は苦労が多かった等、お前も頑張れ、きっといい事もある。と励ましてくれたお爺ちゃん宅を訪れた。残念ながら2年前に他界したと奥さんから告げられた。あの時の『励まし』が在ればこそ頑張り抜くことができた。本当にありがとうございました。「ちょっと相談がある」と案内されたのが、今にも押し潰されそうになっている家屋であった。雨が降るたびに避難していると訴えられた。早速、関係機関に伝えた。
 私は自分が苦労したとは思っていない。しかし、私の体を見て必ず「大変な苦労が」と聞かれる。私が「苦労したとは思っていない」理由の一つに、お爺ちゃん、お婆ちゃんの話を聞くと、筆舌に尽くしがたいご苦労をなさっている。15〜6戸の集落を訪問した時にお会いした方もその一人である。90歳中程のお婆ちゃんは、ご主人は子供3人残し、ニューギニアで戦死(33歳)。以来、女手一つで、残された子ども3人を立派に育てあげられていた。その内の一人の息子さんの奥さんは、リュウマチを罹患しておられた。「ご主人は」とお伺いすると「50歳のとき病死」。とのことであった。
 いずれの方も、通り過ぎてしまった苦労からかあっさりとしたものである。最中の苦労は「苦労」と感じないのではないかと思う。最近、不幸な状況にある方が、深夜、重度障がい者の子どもさんに「とこずれ」防止のため、寝返りをさせながら「同じ子を持つ方もこうしているのだろうか」とふと思ったと話された。解かる人はわかるであろうが、何十年もこの方々は熟睡できる時間は無い。子どもが咳をすると「パッと目が覚める」そうである。痰を詰まらせると「死」の危険があるため吸引をしなければならない。と伺った。なんという世界であろうか。
 私は、現在県会議員をさせていただいているが、ご苦労を軽減することが仕事ではなく、苦労し甲斐がある社会を創ることではないかと最近考えるようになった。多事多難な年も過ぎようとしている。約300名以上の方々が今年も自ら命を閉じた。長い人生、一時の苦労は喜んで受けようではないか。きっと、「あの時を」懐かしむ時が待っている。


12月2日     複雑な思い(代表質疑から)


 安藤知事は、平成17年の仕事納めにあたって、「明日からは年末年始の休みに入ります。交通事故等十分に気をつけていただき、御家族の皆様とともに楽しいお正月を迎えていただきたいと思います。」
 また、「来るべき年が、宮崎県にとりましても、また、職員の皆さんにとりましても素晴らしい年となることを心からお祈りします。」と述べておられます。こうして迎えた18年が宮崎県及び職員にとって「心からのお祈り」が通じなかったのか、県政史上最悪の年で終わろうとしています。18年の仕事納め式で知事が挨拶できるかどうかについて、私は分かりませんが、余りにも悲しい出来事が多発した年であったと思います。悲しいと言えば、今回の事件で逮捕された3名の県職員及び家族ではないでしょうか。刑事訴訟法「拘留期間」第208条1項のタイムリミットは11月27日、昨日だったと思います。今日の新聞では、拘留期間が延長されたと報じられています。同法2項の手続きがとられたものと思います。2項はこの期間の延長は10日を越えることができませんから、12月7日がタイムリミットとなります。起訴されると、県職員は刑事休職となり、本人面談か公判での罪状認否の確認がなされ、起訴事実を認めれば知事が懲戒処分をすることになります。3名は官製談合を上層部の指示により行ったと供述していると報じられています。これが事実なら、指示を受け実行した人が、指示をしたとされる人から処分を受けると言う悲惨な結果となります。知事の監督責任と、県職員3名に対する思いについてお伺いします。

 と質問をしたところ、知事は答弁で「職員とその家族のことを思うと、夢であってほしいという思いでいる」と声を詰まらせ、おえつを飲み込むようにしながら「極めて心痛を持って毎日を過ごしている」と答弁された。その後、新たに江藤出納長も逮捕された。新聞によると、「知事からの指示があった」と供述していると報じている。議会も県政史上初の不信任案が可決された。ここまでくると、知事の逮捕も近いと予想される。実に悲しいことである。
 お叱りを受けるかもしれませんが、私は、これらの方々全てが犠牲者の様な気がする。安藤知事は、僅か3年半年の間、清武養護学校高等部の開校、小林分校の設置等障がい児教育が急速に改善された。療育センターについても、県北・県西への設置に向け動き出した。償還払いから現物給付へ改善が図られた。等々永年放置されてきたものが動き出した。感謝している。しかし、官製談合によって過去の人になろうとしている。そして容疑者となろうとしている。残念である。議員・首長は選挙に当選することによってのみ、自分の思いが議会の場で訴えることができ、議案が提案できる。当選する為には、あらゆる人の応援を頂く為に好ましくない人と解かっていても「約束」しなければならない。資金の提供も頂くことになる。結局それが命取りになる。「念書」・「談合を指示」がその一つであろう。宮城県元知事浅野さんが「選挙で戦った相手より、応援した人に気をつけろ」と言われていたが重みのある言葉である。
 今回の事件は、人間の弱さ、複雑な人間の心をあからさまに表現したものとなった。最後に個人的ではあるが、安藤県政のキャッチフレーズ 「きっと、元気。ほっと、みやざき」は継続していただきたいものだ。


12月2日     自殺と母  第2話


 長い闘病生活が続いた。その間、様々な事が身の回りで起きた。ふと考えると、トラックの運転手には会っていない事に気が付いた。思い切って会社の事故担当の方に会いたい旨を伝えた。「話をしてみる」との返事があった。暫くして会社の方と一緒に運転手さんがお見えになった。終始、下を向いておられた。決して私を見ることは無かった。私が「会いたい」と言った理由は定かではないが、当時、私は労働組合の教宣部に所属し、組合の機関紙(日刊紙・こぶし)のガリキリを担当していた関係から「スピード違反、過積載、居眠りなどしてまで働かされ、事故を起こした、あなたも犠牲者だ。私も頑張るから、是非あなたも頑張って欲しい」と言ったらしい。このことは、後ほど母から聞いた。
 私は共に頑張ろうと言う気持ちで励ましたつもりであったが、運転手は自責の念からか、会社の嫌がらせかについてはわからないが、「妻子を残し、自ら命を絶った」との悲しい知らせが届いた。結果として最悪となった。今でも後悔をしている。
 1年ほど経って、救急病院から兵庫県総合リハビリテーション病院へ転院した。そこでも、数件の自殺者を見ることとなった。一人は、左足下腿切断の若い青年だった。スモン患者もいた。私と同様両足切断者もいた。青年は、確か淡路島出身の金持ちの一人息子だった。両足切断の青年は、奄美大島の方だった。何故自殺をすることになったかは正確には知らない。
 私が、「何故自殺を選択しなかったか」は、色々あるが一番大きかったのは、仲間の励ましが有った事である。前述したように、労働組合運動に関わった日々の生活をしていたが、事故にあって「大量に輸血が必要となった」時、電話で各組合事務所へ「外山、危篤、血液不足、献血必要」との一報に対し、沢山の仲間が呼びかけに応え、命を取り留めたらしい。その後も、「外山を見舞う班」成るものを作って、毎日見舞いに組合員が来て、励ましてくれた。また、「自立」するまでの過程で必要とする環境が兵庫県には整備されていた。この2点であろうと考えている。
 わが国は、1年間に約3万人が自ら命を絶っているらしい。理由は色々あると思うが、私達のケースも結構あると推察する。最近は、飲酒運転、いじめ、虐待等様々なひどい事件が多発し、ショックを受けることが多い。中でも、犯罪被害者対策が叫ばれ法律なども立法化された。喜ばしいことである。しかし、加害者家族対策もセットで考えられないかということである。何をバカなと言われるかもしれないが、本当に私は思う。


11月20日(月)    何が真実か!


 昨年9月の台風14号の災害復旧で宮崎土木事務所が発注した県道鰐塚山〜田野停車場線の橋設計業務入札をめぐって官製談合が行われたとして、県警捜査2課は16日、競売入札妨害の疑いで県土木部長、藤本坦容疑者(59)ら県幹部3人と、設計コンサルタント会社「ヤマト設計」社長、二本木由文容疑者(56)ら業者など7人を逮捕した。
 調べでは、藤本、柴岡容疑者は「上から頼まれた」と供述。さらに、藤本容疑者は今回の事業以外の県発注事業についても、「上から頼まれて受注調整したことがよくあった」と、ほかにも官製談合があったことを示唆等々と報じられている。また、これら受注調整いわゆる談合について、県職員への見返り等については無かったとも報じている。これに対し、安藤知事は、官製談合について「一切、関与していない」と繰り返しコメントしている。「見返りが無い」との報道が事実であれば、県職員(3名)は何故、犯罪である事を承知で受注調整する必要があったのであろうか。当然、犯罪行為が明らかになれば、退職金(約3,000万円)を棒に振ることになる。更に、家族も含めての社会的批判も覚悟しなければならない。約40年間家族の為、県政発展の為を一念に頑張ってきた人と、職員間では人望も厚いと聞いている。「上から頼まれた」を信じる方が自然ではないかと考える。
 しかし、いかなる理由があろうとも、犯罪行為と知りながら「上から頼まれた」事を実行したことは許されることではない。県民は長期不況で厳しい状況に置かれている。一日も早く解決が図られ、一丸となって県政発展への取り組みが始動できる体制の構築が喫緊の課題だと考える。そのためにも、「何が真実か」早急な取り組みが求められていると思う。
2006年11月20日up
11月16日(金)    自殺と母 第1話


 何処となく正月の雰囲気が漂う1月中旬のある日、南国産まれの私は職場の仲間とスケートに参加した。スケートの帰り、野球の公式戦が目前となっていたので、バッティングセンターに寄って1時間ほどバッティングの練習をした事までは記憶しているが、それ以降のことは全く記憶に無い。
 どれほどの時間が経過したかは定かでないが、気が付くと病院のベッドにいた。なんとベッドの横には、椅子に腰を下ろしたお袋が下を向いて居眠りをしている。現状が全く理解できなかった。「母ちゃん、何故、俺は病院にいるのか?」と何回も聞いたらしい。「交通事故で、トラックにはねられた」、「だって、俺は車の免許も持ってないのにどうして」「高速からトラックが落ちてきた」等々の会話が交わされたらしい。後ほど、事故担当の警察官の説明によると、スピード違反、過積載等によってトラックが横転落下し、私達を跳ねた事を教えてくれた。
 病院への入院原因は理解ができたが、何処を怪我して、入院しているかについてその時は解かっていなかった。お袋は、担当医から「両足がないことを本人に言わないこと」と厳しく言われていたらしい。ベッドに横になって、へその上にカーテンがたらしてあり、その上、半円形の筒みたいなものが下半身を覆っているので、下半身を見ることは全く出来ない。
 暫く経って、臍の上のカーテンを除いて、筒状の器具は取り外されたある日、お袋が「暇じゃかい、爪でも切ろか」と言って、私の手の指の爪を切り出した。両手の爪を切り終えると、直そうとするので、「母ちゃん、足の爪も頼むわ」と言うと、ギクッとした顔で、「まだ、足は傷があって爪は切れん」と言った。体に違和感を感じ、手を伸ばして、足を触ってみると丸くなっている。「母ちゃん、何で足が丸くなっているのか?」と聞くと、「傷が治っていない」等々の悲しい声で返事が返ってきていた。こんな危なっかしい綱渡りの日々が続いた。
 今、お袋の気持ちを考えると本当に申し訳ない気持ちで一杯である。何故、現実を伝えてはいけないかについては、精神的に安定していない時期に、現状を知ることは発作的に「自殺」の危険が非常に高いことを主治医から厳しく言われていたらしい。お袋にとって、緊張の日々が続いたことに違いない。
 しかし、静かに流れる時間は何時までも続いてはくれなかった。余りにも自然ではない自分の体に対して、ある種の疑問と不安を感じていた。ある日、思い切って臍の上のカーテンを払ってみた。そこには現実が見えた。1m75cmあった身長が半分の体になっていた。見事に両足が無かった。突然、目から大粒の涙が飛び出てきた。父は、病室から飛び出して、大きな柱に額をぶっつけていた。何回も何回もぶっつけていた。額から真っ赤な血が流れていた。あの、「頑固な親父が」俺のことで悲しんでいる。本当に不思議な気がした。よく、家の手伝いをしないといっては生木で殴られた。手刈りのバリカンで5厘刈りにされるが、「イタッイ」と言うとバリカンで叩かれた。とにかく厳しかった。あの親父が俺のことで悲しんでくれている。不思議と、自分のことで悲しむと言うより、苦労して育ててくれたのに、今になって、こんな体になって親父を悲しませている、自分に腹が立った。
 正直、親不孝をした。自分は一生かかって「親孝行しようと」固く誓った。しかし、確証の無い誓いなんか実にもろいものである。ある時は、「頑張ろう」と考えるが、次の日は、「もう駄目だ、死んだ方がましだ」の繰り返しだった。入院中は夜が実に長かった。昼間は、回診が終わるとすることが無いので殆ど眠っている。反面、夜は目が冴えていた。ベッドの下で毎日のように父と母が何かしゃべっている。ある晩、何を話し合っているのか聞いてみると「父ちゃん、良治を殺して一緒に死のか」「足が無いし、可哀そうじゃがな」「どうせ、生きちょってん人かい馬鹿にされるがな」等々お袋が泣きながら父に話しかけていた。勿論父は黙ったままだった。私は、二人の会話を聞きながら涙を流した事を記憶している。
 母は、「絶対にナイフ、花瓶等は患者の手の届く所には置かない事」を主治医から指示されていたらしい。しかし、毎日が単調な連続である。最初の頃は主治医の指導を厳格に守っていたが、暫くすると忘れることが多くなっていた。ある日、私に林檎、梨など果物を食べさせた後、ナイフをベッドの上に置き忘れていた。私は、そのナイフをベッドカバーの下に隠した。多分午前4時ごろであったと思うが、ナイフを取り出して喉元に突き刺して自殺しようと試みた。でも痛くて途中で断念した。今日は断念するが、明日決行しようと固く誓った。でも、勇気が無く再び断念した。次の日も同じであった。自分には自殺をする勇気が無いことに気が付いた。諦めた。「母ちゃん、ナイフ」と言って母に返した。
 入院中に、母と父の子どもに対する「愛」の深さを知ることとなった。動物的本能と言うか、形容することはできない。母の一番気に掛けているのは、脳波の結果である。回診の時は必ず主治医に脳波の結果を聞いていた。その都度「まだでていません」と主治医は応えていた。その日も同様に聞いた。主治医は「結果は出ていますよ、ノーマルです」と言って病室を出て行った。お袋が「良治、よかったね」と言った。私も「よかった」と内心思った。両足は切断しているし、腹部は切開して内臓内出血を治療していた。その上、頭は包帯でぐるぐる巻きであったから、心配は当然である。しかし、よく考えてみると、母が「ノーマル」と聞いて「良かった」といったことが不思議でならなかった。お袋に聞いてみた。「母ちゃん、どうしてノーマルの意味が解かったな」これに対して「解かるはそんぐらい、脳が○じゃろが」とかえってきた。笑うと腹が痛み本当に苦しかった。その夜、母の「愛」を感じ、とめどなく流れる涙を拭くこともできなかった。
 毎日、病室にいると体に悪いと言うことで、時々姉が買い物に連れ出していた。その時、「途中トラックを見ると石を探し、石を拾ってトラックに投げようとする。また、電車で若い人の足を見ながら泣き出す」と姉が話してくれた。その都度、申し訳なく思った。  (続く)
2006年11月16日up
11月3日(金)    赤ちゃんを抱っこ


 フローランテで開催された「宮崎市福祉まつり」に参加した際、知的障がい者の娘さんを持つ保護者と作業所について話をしていると、「あ、外山さんだ」との声が聞こえてきた。よく見ると赤ちゃんを抱えている一人の若いお母さんがいた。よくお姉さんと一緒に作業所で見かけていた娘さんだ。何時、結婚されたかは聞いていなかったが、横に多分ご主人であろう方と一緒だった。
 「外山さん、赤ちゃんを抱っこして」と薦められるが、よく見ると、多分生後2ヶ月ほどの赤ちゃんである。「恐いから駄目だ」と言うと「大丈夫よ」と再び薦められた。さらに、「私の孫ですよ、抱っこしてよ」と追い討ちを掛けられ、恐る恐る抱っこした。抱っこすると、赤ちゃんがにっこり笑ってくれたような気がした。
 なんとも表現しようの無い幸せな気分となった。私も、いつの間にか58歳となった。赤ちゃんの顔を「ジーッ」と見ていると、30年も前の生活を思い出した。両足の無い私との結婚であったことから、厳しい生活であった。生活の「糧」を手に入れる為、必死に働かねばならなかった。食事を済ませると一人で会社に行って午前0時頃まで働き、終らない仕事は自宅に持ち帰って午前3〜4時まで仕事を続けた。当然、家内も一緒に働いた。こんな生活が10年以上も続いた。子ども達には、当然寂しい時間を過ごすことを強いることとなった。
 東京で生活している娘が「お父さんとお母さんにおもいっきり遊んで欲しかった時があった」と言ったことを、今でも忘れることができない。「仕方がなかったんだ」と言い訳をし、自分を納得させている。
 最近、子供たちに関する事件、事故等が連日のようにマスコミ等で報じられている。理由はいろいろあろうと、産まれた子どもは、全てを尽くして育てる義務が保護者・社会にはあると思う。子どもにはその権利があると思う。「抱っこ」を薦めてくれた若いお母さん、お婆ちゃん本当に感謝です。そして、おめでとうございます。健やかなご成長を心よりお祈りします。
2006年11月6日up
障害児教育について


 障害児教育について、沢山の話しを聞いてきた。また、実践現場をも見てきた。昨日も「模擬授業」と称する学習会に参加をした。現場の先生が、実践を通じて学んだこと、子どもたちが変わったこと等を話し、議論を発展させるものであった。要約すると、当初は障害児と健常児の間には一定の距離感を見ることができるが、時間の経過と共に互いを理解し、助け合う心、相手を思いやる心が芽生えて、共生学級の素晴らしさが実感できた。教育の基本は、分けることではなく、共に学ぶことができる環境の構築が大切である。と言うものでした。
 しかし、この様な思想は、既に約20年も前から全国各地で実践され、そのための環境整備が急速に具体化されています。宮崎市に於いても、約20年前にTさん、Mさん等が普通学級へ希望しているのにも拘らず、市教育委員会は、「就学指導委員会は養護学校等が望ましい」との結論を受け、保護者にその事を強制した結果、保護者と市教委とのトラブルが多発した時期がありました。その後、市教委は普通学校か養護学校等かの学校選択については「保護者・当事者の選択を尊重する」との基本姿勢が確認されたと、私は記憶しています。ノーマライゼーションを保障するため教育現場に於いても、バリアフリー、スクールアシスタント等環境整備が進められてきました。
 県全体の教育環境では、宮崎市の様な対応がされている自治体はごく少数と言う実態となっています。結果として、過去10年間宮崎県の生徒数は約3.2千人減少しているにも拘らず、特殊学級対象生徒数は554人と急増しています。
 国際障害者年以降、ノーマライゼーション・リハビリテーションを基本理念とし、社会のバリアーフリー(精神的・制度的・物理的)の取り組みが確認されましたが、現状は逆行していると言っても過言ではありません。「障害児・健常児が共に学ぶことによって変化があった」との類似の発表会はもういいではないか! だって、「障害児・者も人間だから」変わって当たり前です。それよりも、全てのライフステージに於いて全人権回復への取り組みが喫緊の課題ではないでしょうか。
2006年10月29日up
10月8日(日)    生命のメッセージ展


 10時30分に宮崎市民プラザ4Fギャラリーで開催されていた「生命のメッセージ展」へ行った。「生命のメッセージ展」では通常の等身大オブジェが展示されていた。一人一人のメッセンジャーの生きた証である写真を見ていると、理不尽にも命を奪われた「人の死」がいかに罪深いものであるか実感できた。オブジェの前で靴をなでておられた方と少し話しができた。熊本の方で、息子さんが5年前に交通事故で即死。買ってあげた靴は、成人式と入学式の2回しか使ってない。とのことであった。私も交通事故で両足を失くしているので、当時の両親の苦痛・苦悩・悲しみ等は少し理解ができる。
 それにしても、最近は、余りにも「人の死」が軽すぎる、そして、多すぎると思う。理不尽にも命を奪われた家族の事を考えると言葉がない。生涯、心から晴れる日なんか来ないのではないかと思う。
 私をはねた方は、後ほど自ら命を絶ったと聞いた。加害者家族にとっても大変な生活を強いられることになると考える。一人の死に止まらず、被害者家族、加害者家族などの「間接死」も含めて考えると、「起こす前にもっと慎重に」行動すべきではないか。
 「人の死とは」について考えさせられた一日であった。
2006年10月10日up
10月4日(水)    届けられた小ネギ、カボス、柚子  


 帰ってくると、玄関に小ネギ、カボス、柚子が置いてあった。小ネギには、「一度には食べることができないでしょうから、残りは庭の花壇の隅にでも植えておけば何日でも利用できます」と書いてあった。また、カボス、柚子には(写真)それぞれ張り紙が貼ってあった。
 多分、6ヶ月前の相談者からであろうと直感的に思った。事実そうであった。名刺には、丁寧で且つ達筆な字で食の仕方まで記述されていた。
 何故直感したかと言うと、2日、息子さんご夫婦がお見えになって「再雇用が決定し、辞令をいただきました」と報告があったからである。深々と頭を下げておられるご夫婦を見て「頭を上げてください」と言うのが精一杯であった。外から赤ちゃんの鳴き声が聞こえていた。「赤ちゃんがかわいそうです、早く車に」と言って帰って頂いた。
 きっと、この若いご夫婦のご両親だろうと思ったのである。相談以降4月ごろから一週間に一度の割合で玄関に野菜が届くようになっていた。四季折々の野菜が玄関に届くようになって、1ヶ月間前からぱったりと途絶えてしまった。何かあったのだろうかと心配になってはいたが、「催促をしているようで、どうしたのですか、と聞くこともできなかった」後ほど、「がんを罹患した」と伺った。
 無事、退院され、再び野菜作りに精を出されているらしい。当然「息子が大変お世話になりました」と添えてあった。本当に、親が子を思う愛の深さを改めて知ることが出来た。こうなったら、できるだけ長く野菜を届けていただこうと思った。今度お会いする機会があればその事を伝えたいと思っている。完治祈念!
2006年10月5日up
9月24日(日)   ぶらり散歩 別府へ


 疲れが極限となり、別府へぶらりと散歩をしてきた。記憶は定かではないが、こんな散歩は30年間で初めてだと思う。旅館につき、海岸の遊歩道を歩いていると、テトラポットの上に台風が原因と考えられる沢山の流木が放置されていた。宮崎の海岸でも同じ光景が見られている。耳川だけでも先の台風(昨年の14号台風)によって132千本もの樹木が崩壊し、下流域に流されていた。流木を撤去するだけで約5億円の費用がかかったといわれている。132千本を面積に換算すると132ヘクタールの植栽未済地が発生したことになる。本県の林業就業者高齢化率は平成12年国勢調査で、60歳以上では41%。今後、急速な高齢化が懸念されている。また、耳川上流の民有林で伐採後3年以上植栽されていない1ヘクタール以上の植栽未済地は、平成13年度調査で、213ヘクタール。県全体植栽未済地 1,331ヘクタールの16%であったのが、平成17年度(推計)では、県全体植栽未済地 1,723ヘクタールと増加し、その内、西北山間地域が41%、717ヘクタールと推計されている。昔は、「国敗れて山河あり」と言っていたが、現在は、「中央栄えて山河なし」と言えるのではないか。
 テトラポットの上に数匹の猫が気持ちよさそうに居眠りをしていた。よく見ると5〜6匹はいた。多分、野良猫だろうと思われる。その猫と遊んでいる一人の青年がいた。盛んに話しかけていた。多分、余程の猫好きだろうと思いながら通り過ぎたが、私に手を振り微笑んでいるので、時間つぶしと思って話しかけてみると、韓国の留学生であった。つい2〜3週間前に別府大学に語学の勉強と言う事であった。将来の夢はホテルのオーナーになること、特にレストラン経営がしたいと語っていた。何れにしても、素晴らしい青年であった。
 最近、色々あって、心身とも疲れていた。今回の小旅が私の心の癒しに十分だった。流木と野良猫、韓国の青年、一つひとつ多くの事を学ぶこともできた。「青年よ大志を抱け」。さあ、明日から頑張るぞ!
2006年9月25日up

孫と宮腎協体育祭参加
9月17日(日)

宮崎県知事 5000万円提供関与否定 後援会側の説明と矛盾


 宮崎県の安藤忠恕(ただひろ)知事の後援会が後援会の元幹部とされる人物に5,000万円を提供した問題で、安藤知事は15日、記者会見した。現金の受け渡しを自身が知っていたことは認めたものの、「具体的な額など指示しておらず、どのような方法で届いたかは分からない」と強調し、関与を否定した。一方、後援会長は、取材に対し「元幹部への現金提供を協議した会合に知事も同席していた」と証言。「会合は知らない」とする知事の説明との矛盾が浮き彫りになった。
 会見で知事は、後援会が現金を渡した人物を「A氏」と呼び、「後援会とは関係ない」とした。
 知事によると、初当選した知事選後の2003年9月ごろ、「後援会から『A氏が後援会に入ることに同意できない。断りを入れるが、知事はタッチしなくてよい』と言われ、任せた」という。翌月、後援会から「この件は処理できた」と報告を受けた1〜2日後、A氏に呼び出され、宮崎市内の後援会事務所で多額の現金入りと思われる手提げ袋を返された。手提げ袋は「同年12月ごろ、額など中身を確認せず後援会長に渡した」と説明した。
 知事は会見で「A氏への対応を決める後援会の会合は、まったく知らない」と主張したが、後援会長は、「用意した現金は5,000万円」と認めた上で、「(現金を渡した人物は)事務局長の後任として知事が連れてきた。対応を話し合った会合には知事も顔を出している。知らないはずがない」と話し、双方の言い分は大きく食い違っている。
 また、現金の趣旨について、知事は「A氏から政治の指南を受けたことへの対価だったが、適当ではなかった」と釈明。一方で「カネは後援会長が借りたもので、A氏からすぐ返されたこともあり公選法や政治資金規正法に触れない。渡した行為自体がなかったことになると思う」と強調した。


=2006/09/16付 西日本新聞朝刊=


 この↑記事をお読みいただいた方は、どの様に感じられるでしょうか? 
 私は常々「行政・政治は常識が基本である」と思っています。5,000万円もの多額のお金がやり取りされたことは事実のようです。しかし、現時点では、知事はお金の額は「知らない」といっています。
 しかし、全員協議会の中で「多少多いとは思った」との発言を肯定されていました。では、何を基準に「多い」と思われたのでしょうか。さらに、僅かな期間(2週間程度)事務局長の後任として知事が連れてきた(後援会会長発言)方に対する対価が、5,000万円といわれています。
 「事務局長」との役職について、私が確認した所、知事は「後援会事務局長ではなく、自分が勝手に言っていただけつまり、自称です。」と答弁されていました。こうなると、対価でもないような気がします。
 では、何の為の5,000万円だったのか、益々理解が出来ないお金だということになります。他、後援会長と知事との間には様々な点で食い違う点があります。
 知事は、「情報公開、県民が主役」と繰り返し発言されています。是非、県民が主役というなら、県民が納得できる説明を早急にして頂きたいと思います。我々、議員もこの点を明らかにする責務があるのではないでしょうか?政治不信を解消する為にも!喫緊の課題であると思います。
2006年9月18日up
8月17日(木)    いつもありがとうございます


 子どもがそれぞれ社会人となって、親元を離れ所帯を持って生活をするようになると、子どものために家を2〜3日留守にすることもある。その時一番心配なのが、愛犬(ブッチー)の世話である。私たちの場合は、団地内のMさんにお世話をお願いしている。食事、散歩、蚊取り線香等出発前に家内がMさん宅へ伺いお願いしてくる。
 帰宅し、満足げな愛犬の顔を見るとホッとする。反面「お前たちより待遇がよかった」とでも言いたげな「顔」には若干腹が立つ。出発の朝、Mさんから「散歩は食事の前だったか、後だったか」との電話があった。一瞬、返事に戸惑った。と言うのも、普段は自分たちの都合で、食事か、散歩かは行っているからである。「適当に」と応えては、自分たちの愛犬ぶりがいい加減なものと解かるような気がして「散歩が先で」と言ってしまった。
 帰宅して驚いたのは、真夏の暑い日が続く中、庭の花にも散水がなされていたことである。さらに、食事はお願いしていたものの他、高級な食事を買って食べさせて頂いていた。本当に感謝、また、感謝である。いつも、いつもありがとうございます。
 台風10号が日向灘付近に迫って、風雨が強くなってきた。議会便りの配布を家内と二人でしていたが、激しくなってきたので、農家に寄ってみた。小ねぎを構えておられた。台風が倒すと傷むということで、沢山引いてこられていた。家内と二人手伝うことにした。2時間ほどで構え方は終えることができた。帰ろうとすると、沢山の「こねぎ」と、カボチャを頂いた。「家内が、小ねぎが最近は凄く高い」といっていたが、私は全く分からない。農家の方々には野菜、最近は、新米をよく頂く。本当にありがとうございます。早速、家内はMさん宅へ持っていく準備をしていた。
2006年8月27日up
8月14日(月)      孫と一緒に議会便りの配布


 後援会の方々の力をお借りして、議会便り配布の準備はできますが、約3,000枚は家内と二人で可能な限り地域配布を行っています。以前から家内の都合が付かない時は、子どもたちにお願いすることがありました。しかし、実際配布まで持っていくには「相当な騙し合い」が必須となっていました。今回、家内は急用あって一緒に配布ができず困り果てていると、「お帰り(ただいまが本当)」といって孫(4歳)が飛び込んできた。これ幸いと思い、「じいじいといいところにいくか?」と聞いてみると「行く」と言うので自動車に載せて出発した。
 決して児童虐待をしているわけではありません。私の場合は車いすで、階段が殆どの家屋の現状ではポストまで行くことがでず、一人の配布は不可能となっています。ご理解をお願いします。
 目的地に着き、200枚ほど私が持って、長良川の鵜飼のように一枚一枚手渡しをしながらポストへ投函してくれます。最初の10件ほどは順調にいっていましたが、その内「腹が減った」「面白くない」等々言い出した。それでも配布に頑張ってくれた。孫の顔を見ると額から汗が流れ、少し可哀そうに思ったが、じっと我慢し、続けた。玄関に番犬がいると「可愛い」といって動かない、蝉が死んでいると「どうして死んだの、可哀そう」といって動かない。その都度「説明は簡単にし、早く行くよ」といって急がせました。玄関先で洗車、話中、夕涼み等されている方には「読んでください」と声までかけながら手渡しをしてくれました。「ぼく、偉いね」と声をかけられると「バイバイ」と返事までかえしていました。
 約1時間30分で200枚ほど配布をしてくれました。孫も、今年から保育園に通園していますが、配布をしながら、聞いたことがない歌などハミングしながら小走りにチョロチョロしている「孫」がすっかり大きく見えました。
2006年8月14日
8月8日(火)      妻の涙


 約15年も前のことである。いきなり妻が「車の免許を取りたい」と言い出した。私は正直驚いた。と言うのも、運動神経が人並みと言えず「大丈夫かな」と不安がよぎった。しかし、一旦決めたことは決して曲げる「妻」ではない。暫くして教習所通いが始まった。結果として、免許取得まで「普通の方と変わらない時間とお金」で済んだことには驚いた。早速、新車の車を購入してしまった。最初は「恐ろしくて」乗せてもらうには非常な勇気が必要であったが、慣れとはまたこれ恐ろしくて1〜2年も経つと普通に乗れるようになった。
 車も15年も経つと、時々故障する様になったらしい。「車を買っていい?」と一応聞いてきた。(既に購入は決めている)。暫くして、「妻にとって2代目」の車が納車されてきた。当然、彼女にとって初めての車が業者によって処分されたらしい。私が帰ってくると既に車庫にはその姿はなかった。
 私が、「寂しいだろ」と話しかけると、涙が光っていた。何時だったかは記憶が定かではないが、私が、「どうして車の免許を取ることに決めたのか?」と聞いたことがある。妻曰く「あなたは足がない、いつかは運転ができなくなる、付き合いで飲む機会が多くなる」から。との返事が返ってきた。私は、普段は将来のことまで考えることはあまりない。しかし、妻は20年、30年先まで考えていることに驚きと、感心させられた。
 時の流れは速いもので、8月7日が私の誕生日で、58歳といつの間にかなってしまった。時々バスケットボールを楽しんでいるが、走る速さが極端に遅くなった。ハンドリングも不細工となった。当然、モチベーションも低下している? 議会便り等配布していると2時間もすると疲れてしまう。体の劣化を感じる今日この頃である。「あ、そうか」今、現在はまだ大丈夫ではあるが、20年後にはまったく自信がない。その日のための「免許」だったのか、とつくづく感心させられた。感謝である。
2006年8月8日
7月15日(土)      「妻へ」の手紙


 特別委員会の県北視察で都城泊となった。朝、新聞を広げると昨夜から連続して報道されていた北朝鮮のミサイル問題が紙面の殆どを占めていた。記述されている内容は、テレビ等で既に報道されたもので新鮮味はなく斜め読みで充分であった。ページを繰っていると「茶の間」の記事が目に留まった。「妻へ」の手紙と題したもので、読んでいるうち何故か涙が流れて仕方がなかった。(記事)
 私たち夫婦も結婚して早いもので約30年となっていた。私が両足のない障がい者ということもあって、山あり、谷ありの生活が連続・長期間続いた。しかし、厳しかった生活を何とか乗り切ることができたのも家内の働きが殆どを占めていたと思っている。しかし、感謝の気持ちを伝えたことは一度もなかった。「妻への手紙」にあるように、「私の世代では照れ臭(くさ)いと云(い)う思いが強くて、とてもそういった気持ちにならなかったし、言えなかった。次に言いたい事は貴方の頑張りに対する感謝の気持ちだ。我が妻ながら、それは驚きの連続だった」全く私を代弁してくれているような内容の手紙である。
 時機を見て方法・手段は別として「感謝」をと考えてはいるが、果たして実行できるか正直自信はない。「私の世代では照れ臭(くさ)いと云(い)う思いが強くて、」が頭をよぎる。多分、何事もなく過ぎてしまいそうである。
2006年7月15日
6月26日(月)      いっぱいの愛


 懇親会へ出席のため「旧青空市場」で降りた。久しぶりに来てビックリした。以前は、沢山の買い物客で賑っていたが、今は「バージニヤビーチ広場」と命名された小さな公園になっていた。20分ほど早く着いてしまったので、2回ほど訪問したアメリカのバージニヤビーチの名がついた公園を散策していると、一人のお婆ちゃんがベンチに腰掛けておられた。「何故そうなったの」と言う何時もの(私が両足を失った説明)会話から始まって、次は、私が「ところでお婆ちゃんは何しているの?」と聞き返すことから本格的な会話が始まることになる。
 お婆ちゃんの話しによると、33歳の時、男の子3人残して夫が病気でなくなり、その後の生活はまさに苦労の連続であった。しかし、子供たちも必死で頑張ってくれた。中でも、昼間はうどん屋さん、夜は仲居さんとして働き、帰るのが午後11時ごろになる。子供さんの夕食は?「朝、夕食の準備をして出て行く、子供は、中学生になると新聞配達をして協力してくれた」
 今、思うとあの頃が一番良かった、苦しい中にも喜びも、楽しみも沢山あった。そして、子供たちは立派に成長して、今は幸せである。と言い切られた。
 私の過去を聞いて「お母さん、お父さんは大変だったでしょうね」との言葉には自分を映しての感想だろうと思った。顔には一筋の涙が流れていた。
 40年前は児童クラブも、少子化対策も叫ばれていなかった。しかし、合計特殊出生率は高かった。何故だろう。合計特殊出生率が1.25まで激減した理由は何処にあるのだろうと解からなくなってしまう。自分の子供の成長・生活をがむしゃらに守る、まさに動物的本能であらゆる手段を模索し実行する、という必死さが欠けているのではとも思ってしまう。
 お婆ちゃん、本当に沢山の事を教えていただきありがとうございました。いつまでもお元気で。
 それにしても、昨今の児童虐待、両親殺害、幼児殺害等々考えられない犯罪が余りにも日常化し、何かが欠けている、間違っていると感じる。あのお婆ちゃんとこども達の生活は筆舌に尽くしがたい厳しさが想像できる。しかし、お母さんの「愛」は一杯あったのだと思う。
2006年7月10日加筆修正
5月7日(日)      思い出の写真


 時間に余裕があるときは、週に1〜2回程度、体力の保持とストレス解消を目的に車椅子バスケットボールに励んでいます。車椅子バスケットボールクラブは、1974年に宮崎県で最初に結成されました。
 1979年に宮崎で開催される「全国身体障害者スポーツ宮崎大会(現全国障害者スポーツ大会)」に向け、川崎監督のもとチームの強化が取り組まれました。
 必死の努力の甲斐あって、大会のバスケットボール競技では、目標であった初戦突破を果すことが出来ました。準決勝では惜敗しましたが、3位と何とか地元開催の責任を果す事が出来ました。
 正式発足に至るまでには筆舌に尽くしがたい多事多難の連続でした。約35年前のことであり、障がい者スポーツとして車いすバスケットが、行政・社会・障がい者の中で認知されていなかったこと等によって、体育館の使用を拒否される、部員が県内に散在し、全員(7〜8人)集まって練習が出来ないこと等がありました。
 それでも、全国身体障害者スポーツ宮崎大会1年前になると、部員も必死で頑張りました。土曜日になると、車のトランクに布団を積み、練習が終わると体育館内で宿泊し、日曜日は朝から夕方まで練習に励みました。当然、開催県として恥ずかしい思いはしたくない、1勝はしたい、との熱い思いがあったと思います。
 結果として、私達の願いが叶って勝利を掴む事が出来た時は、本当に嬉しかった。
 当時の写真を「ジー」っとみると、確かに35年前の私ですが、あの時の感動は、つい最近の出来事であったように感じられます。あ〜、出来ることならあの時に帰りたい。歳をとった証拠です。

2006年5月15日UP
4月21日(金)      御婆ちゃんの昔話


 議会終了後、議会だよりを作成し、地域に配布をすることが日課となっている。早いもので約20年間続けている。配布をしていると様々な方にお会いをする。相談を頂くこともある。
 私のように生まれたのが他地域(日南市)の者は、高齢者との昔話は、地域を知る上で非常に勉強になる。今回も、おばあちゃんに昔話しを伺った。「主人は6年程前に亡くなった。厳しい人で、田んぼの開墾など苦労の連続であった。月夜の夜は、喜んで開墾に励んだ」等々昔話しが続いた。
 私が、「その中でも何が一番しんどかったな?」と聞くと、「長男が誕生し、足が不自由な子供とわかったときじゃ」と話し始められた。「其の時から、主人の田んぼ買いと開墾が一層激しくなった、苦労の連続じゃった」と呟くように話は続いた。
 「婆ちゃん、今、幸せかな?何が楽しみかな?」と伺うと、「幸せじゃ、子供も、嫁もようしてくれる。楽しみはないが、死ぬ前に、爺さんが、毎日お茶と飯は供えてくれやと言うたもんじゃかい、それを欠かすことなくするこっちゃ」と話してくれた。
 その時、新たな方が話しに加わった。婆ちゃんが「ところであんたは何で足を捨てたな」と聞いてきた。私は、いつものとおり、「交通事故、加害者は自殺、両親がどれだけ嘆き苦しんだか」等々の事を話した。婆ちゃんも、客人も泣いておられた。


※婆ちゃんの話しによると、最近は足が痛くなかなか歩きにくくなっているそうです。理由を聞くと、「15〜16歳の頃から、大八車に籾4〜5俵積んで坂道を必死に引っ張って精米に行っていた。精米所に着くと階段が4〜5段あり、俵を背負って機械の所まであがった。当時の苦労もあって、関節が擦り切れて役に立たなくなっている」と教えてくださいました。私も「頑張らなくっちゃ」と、気を引き締め直した。御婆ちゃん、本当にありがとうございました。
2006年4月27日UP
4月16日(日)     清武養護に高等部が!そして、スクールバスが!


 県立清武養護学校に高等部が開設され、式典と入学式が12日開催されたようである。高等部開設記念品が届いた。今から約30年も前、肢体不自由児の高等部は本県では延岡にあるだけで、宮崎県下の子供達は延岡市の高等部での寄宿舎生活を余儀なくされていた。この窮状を解消すべく保護者の方々は県教委に「中央地区にも高等部を!」と毎年訴えていた。
 養護学校にスクールバスもなく、保護者は大変な苦労をされていた。今から十数年も前から「養護学校にスクールバスを!」の働きかけを取組んで来た。保護者の方々と一緒に鹿児島県立牧の原養護学校にも視察に行った。東奔西走の日が続いた。その運動の過程で不幸にもわが子を失うこととなった保護者も数人いた。実に悲しかった。その保護者が「これだけ一生懸命頑張ったのに、私の子供には間に合わなかった!外山さんは嘘つき!」と葬式の時号泣された保護者がいた。私は、返す言葉がなかった。
 私自身も色々あった。高等部も、スクールバスもそのいずれも解決が図られることとなった。本当に感慨深いものがある。
 道半ばで命を落とすこととなった保護者及び当事者の方々のことを忘れることが出来ない。今でもしっかりと胸に刻まれている。
 貴方達の運動があったればこそ、こうしたものが出来上がりました。本当にありがとうございました。いま、沢山の方から喜ばれています。


 高等部開設記念品の中に、子供さんの詩があった。


  はるだ


  はるだ


   えがおがいいな         れお



 ありがとうございました。しっかり勉強に頑張ってください。そして、健康にも気をつけて。
2006年4月17日UP

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