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2007年4月〜2008年3月までの雑感

2006年4月〜2007年3月までの雑感

2006年3月までの雑感








2012年1月29日(火)   選抜に宮崎西校



 わが国の経済が高度経済成長を継続する為に、地方の労働力を都市に集中する必要があった。その流れで私も集団就職列車で宮崎を離れて甲子園球場のある西宮に住むことになった。時が経つにつれて郷愁の思いが強くなってくる頃に、春・夏の高校野球で宮崎県代表の高校生が来ていた。宮交バス、宮崎県旗、宮崎県人、宮崎弁等々見聞すると涙が出るほど感激していた。
 第84回選抜高校野球大会(センバツ、3月21日から12日間)の出場校を決める選考委員会が27日、大阪市であり、宮崎県の宮崎西高校など32校が決まった。宮崎西高校は創部36年目で春夏を通じて初の甲子園大会出場となる。
 宮崎西高校は昨秋の宮崎県大会で準優勝し、センバツ選考の重要な参考資料となる秋季九州大会に初出場し、初戦で自由ケ丘(福岡)との延長戦を制し、8強入りした。準々決勝で大会2位の九州学院(熊本)に敗れはしたが、一般枠で出場を決めた。
 組み合わせ抽選は3月15日。選抜高校野球の九州地区は神村学園(鹿児島)九州学院(熊本)別府青山(大分)宮崎西高校の4校が選出された。頑張れ西校!


2012年1月24日(火)   Kさんの死



●宮崎の車椅子バスケットボールの友から電話があった。「Kさんが亡くなった」と言うものだった。余りにも突然の訃報に言葉が詰まった。「どこか悪かったの?」と聞くのが精一杯であった。Kさんとは約30年も前からバスケットを通じて付き合いをして頂いた。宮崎国体後の身障大会へ向けての猛練習にも取組んできた。その後のバスケットクラブ維持のために沢山のお世話をいただいた。また、1年に一回の24時間車椅子バスケット大会でも大変なご尽力を頂いた。福岡、熊本、鹿児島、大分等で対外試合がある度ご一緒させていただいた。クラブ結成後数年は勝利することはなかったが、決して投げ出さず、諦めることなく練習に参加されていた。体育館には何時もKさんの姿があった。試合には出る機会は少なかったが、練習だけはしっかり参加されていた。心の中では立派な方だなと思っていた。つい最近まで宮崎車椅子バスケットボールの監督として、私たちクラブ員のご指導を頂いていた。脊髄損傷で車椅子の生活は筆舌に尽くしがたいしんどさがあったと思います。私自身も両足切断の身でありその苦痛、苦悩等は理解が出来ます。そういった意味も含めて長い間本当にご苦労様でした。そして、心からのご冥福をお祈りします。


2011年11月14日(月)   八重川のカモ



 郷里宮崎の方から、「八重川のカモ13羽です。近くの八重川にも冬の使者カモの数が増えて来ました。気温の低下に伴いまだまだ増えるのではと期待しています。」との便りが届きました。私も、よく愛犬の散歩で管理道路を散歩していました。今の時期になると沢山のカモが飛来し、川面をゆっくりと羽根を休め浮かんでいました。そのカモ達を見ると追いかけて吠えていた事を思い出し、懐かしさで一杯になりました。その他、最近では八重川のコスモスの写真、兵庫県姫路市で開催されている「B―1グランプリin姫路」で、チキン南蛮によるまちおこしを進める延岡市の市民団体「延岡発祥チキン南蛮党」が宮崎県から初出展し、来場者の人気は高く、一時約2時間待ちとなる長蛇の列ができた。との宮崎の記事が送られてきました。宮崎を離れた人間にとって、「宮崎の今」を知る貴重な情報源の一つになっています。ありがとうございます。また、今後ともよろしくお願いします。


2011年10月22日(土)   散歩



 体調を崩して取り返しの出来ない身体になったしまった。今は、今に慣れる事、今以上に悪くならないように努力すること等を念頭に日々前向きに生きている。その一つが朝1時間程度の散歩である。小川程度の河川の管理道路を散歩している。道端には猫の額程度の面積にでも近所の方が草花を植栽して楽しんでいる。今盛りと咲いているのがコスモスである。宮崎の方からも「八重川の堤防のコスモスが満開である」との便りを頂いた。(ふるさとは遠きにありて思うもの そして、悲しく歌うもの)である。また、色々な方々とお話しする機会がある。昨日も4〜5人の方との談笑する機会が持てた。ジャージに「宮崎」の字を見て「宮崎の方ですか」と質問を受けた。「私は鹿児島出身です」市内出身は一人だった。勿論話はふるさと自慢になってしまう。勿論、私は宮崎がいかに素晴らしいところであるかを誰よりも多く大きな声で話してしまう。ここ3〜4日は秋晴れの素晴らしい天候に恵まれている。聞くところによると宮崎は今年雨が多い様である。災害が心配される。12月収穫の宮崎産ポンカンは、いま陽の光を必要としている。天候の回復を祈るばかりである。ほほを伝う風はすっかり秋の風である。遠くに見る六甲の山並みもやがて紅葉で覆われることになる。


2011年8月12日(金)   裸の島を見て



 テレビで「裸の島」を見た。ストーリーは、【瀬戸内海の周囲500メートルほどの小さな島に、中年の夫婦と二人の息子の4人がやっと生活できる島である。
 家族が住む島の土地は、水が無いため、畑にやる水も飲み水も大きな島から手漕ぎ船で大きな島へ行き、そこで水を汲み、島へ戻ったら天秤棒に担いで島に運び、頂上まで水桶を下げた天秤棒を担いで急な山道を登る。天秤棒が肩に食い込む。柄杓で畑に水をまく。
 荒れた土地は水を吸い込む。その繰り返しが夫婦の日常の仕事だ。土地はやせているが、生きる為の懸命な働きによって、春は麦を採り、夏はサツマイモを採って暮らしている。
 ある日、息子が高熱を出した。父親が船で大きな島から必死な思いで医者を連れて帰ってきたが既に死んでいた。葬式が営まれ、それが終わると夫婦はいつもの生活に戻る。
 農作業中突然、妻は狂ったように作物を抜きはじめ、倒れこんで狂ったように泣き始めた。夫は黙って見ている。泣いても叫んでもこの土地で生きていくしかないのだ。】


※見終わって50年前の我が家の生活を思い出した。涙がとめどなく流れてきた。私たちの生活もほとんど似たようなものだった。学校から帰宅すると蜜柑山の開墾に駆り出されていた。段々畑の草払い、予防用機械の手漕ぎ作業等々毎日働いていた。当時、鬼のように恐かった親父がパソコンの横に立てかけてある遺影の中で笑っている。バックには収穫前の蜜柑がたわわに実っている。勿論生前はあまり見たことがない笑い顔である。親父、ありがとうございました。私も63歳になりました。身体を壊し、心配を掛けましたが、まだ親父のとこには行きません。暫く温かく見守っていて下さい。


2011年7月18日(月)   宮崎の匂い



 宮崎牛などの県産品を販売するアンテナショップ「堺みやざきKONNE(コンネ)」が30日、堺市にオープンすると聞き、早速車を飛ばし行ってきた。様々な宮崎産が陳列されていた。職員さんもほとんどが宮崎出身と伺った。店長さんは宮畜の方で丁寧に説明を頂いた。


 それによると、民間企業の出店は初めてで、販路拡大も期待されこと。コンネを運営するのは、堺市の鉄板焼き専門店「南海グリル」、「口蹄疫からの復興に役立ちたい」という同店の申し出と、販路を強化・拡大したい宮崎県の思惑が一致。「10社以上、100品目以上の県産品を扱う」などの条件も満たしていることから、商標の貸し出しが決まり6月30日のオープンとなったようです。私が伺ったのは7月3日(日曜日)、お客さんは4〜5人程度でした。話しによると一日当たり来客数は平均約100名程度と言うことであった。2階はオビスギを使って創られたレストラン、勿論食材は宮崎牛を中心としたメニューが並んでいた。
 昼食を終え、もてるだけの「宮崎の匂い」を買って、帰路についた。


※難しいかも分かりませんが、野菜等の販売コーナーもお願いします。スタッフの皆さん頑張ってください。



2011年7月18日(月)   ポプリ





 お手紙が来た。明けてみると、暑中見舞いを内容とするものだった。


 「ビックリしました。宮崎を離れると書いていましたが? もう 帰らないのでしょうか? なんか淋しくなります。
 私が、いろいろ考えて決断し「外山さんに聞いてみよう」と思った矢先の出来事で……
 また、元気になって復活する事を願っております。


 P.S 元気になる「ポプリ」を送りますね!」




※封を開封すると、なんと表現したら言いか「自然」が実感できる優しい香りが鼻に流れてきました。これがポプリなんだ。とは思いましたが、「ポプリ」ってなに? と思い調べてみると、「(フランス語)で、花や葉・香草(ハーブ)、木の実、果物の皮や苔、ポプリオイルなどの香料を混ぜあわせて容器に入れ熟成させて作る室内香のひとつ。 語源はフランス語で「ごった煮料
理」を意味し、多様な材料を混ぜてつぼに入れて作ったことに由来する。」


とありました。




 子供の頃、猛暑の中、父に拉致されて蜜柑山の下草刈りを手伝わされていましたが、その時の草の匂いを瞬間的に思い出しました。とっても「ホッとする」素晴らしいものを頂き感謝しています。今は鉛筆立ての横に於いて匂いを楽しんでいます。あ、「決断したこと」私でもよければ、是非聞かせてください。本当にありがとうございました。暑い日が続きます。健康には十分気をつけてください。


2011年7月18日(月)   議員の退職について



 約30年の長きに渡って地方議員を担って来た。体調の異常が原因で勇退し、約2ヶ月が経過した。永年の励ましに対し感謝の意味を込めはがきを送付した。ところが、沢山のハガキ・お手紙を頂くことになった。気がつくのが遅かったが、改めて議員の重責を痛感することになった。



「淋しいです。 なんだか涙が流れてしまいます。 もうお会い出来ないのかなー と思ったりして……
 でも 今まで人に言えない大変さでぎりぎりいっぱい頑張ってこられたのでしょう!  から
 もう、本当にゆっくり、自由に、今まで出来なかった時間の数々を楽しんでください。
 豊かな やさしい これからの人生でありますようお祈りしています。  お元気で」




 「お疲れ様でした。突然姿を消すなんて酷だよね。別れの言葉もなくさびしいです。
何かあったとき 一番心の支えにしていたのに胸中に穴が開いたみたいに淋しいです。
でも お元気になられて嬉しいです。
お会いできる日を心より待っています。」




※本来ならば、お一人おひとりに返事をと思いながら、つい時が流れてしまい、たいへん申し訳なく思っています。宮崎は今から本格的な猛暑を迎えることになります。何方様も、体調管理に十分お気をつけられて、この夏を乗り切って頂きますようご祈念申し上げます。


2011年4月16日(土)   9回の選挙



 約30年間議員活動をしてきた。議員になるためには選挙に立候補し、当選することが条件となる。私はこの選挙を9回も経験した。確かにしんどい、まさに肉体労働である。私の場合両足がないこともあり、階段が多い現状では、政策等を聞いていただくことも出来ず、随分苦しい思いをした。ご支持を頂き当選し、議会での質問・答弁(議会便り)を作成し配布しようとしても、また階段に泣かされることになる。私は、当選をするための苦しみ、当選後の苦しみいわゆる二重の苦しみから逃れることは出来なかった。今回、勇退を決意した理由の一つには、階段を這って上がることが出来なくなり、体力の衰えに伴うモチベーションの低下もあった。自分は選挙に出なくても、後継候補の選挙運動は残存能力の全てを振り絞って、合法的範囲で全力投球した。ふと、今までは立候補する側から選挙を見ていたが、一運動員として「○○さんをお願いします」とお話しすると、「ほんとに福祉、教育の充実に取組んでくれますか?」と聞かれる。私は「絶対大丈夫です」と返事をしてきた。障害当事者でないことに対する不安の声を伺っていたが、精一杯取組んでくれると期待している。選挙は終わった。10日には決まる。頂いた不安解消のための取組が今後の課題である。
 投票日、家内と孫3人で投票して来た。駐車場で商店主が「不景気だ、売り上げは昨年の半分だ、借金をまとめてどうにかしなければ」と投票に向われた。後姿を見ながら大変だろうなと思った。投票を終えて孫と公園に行った。いつの間にかブランコにも一人で乗れるまでに成長していた。滑り台にも一人で登れた。成長が早い。片平公園は広い。公園には2本の桜が植栽されている。既に満開を過ぎ、緑の葉っぱが目立つようになっている。新しい年度の始まりである。卒業、入学式も終わっている。新しい年度には、新しい気持ちで全てに挑戦して行きたいものだと思った。


2011年4月11日(月)   選挙



 約30年間議員活動をしてきた。議員になるためには選挙に立候補し、当選することが条件となる。私はこの選挙を9回も経験した。確かにしんどい、まさに肉体労働である。私の場合両足がないこともあり、階段が多い現状では、政策等を聞いていただくことも出来ず、随分苦しい思いをした。ご支持を頂き当選し、議会での質問・答弁(議会便り)を作成し配布しようとしても、また階段に泣かされることになる。私は、当選をするための苦しみ、当選後の苦しみいわゆる二重の苦しみから逃れることは出来なかった。今回、勇退を決意した理由の一つには、階段を這って上がることが出来なくなり、体力の衰えに伴うモチベーションの低下もあった。自分は選挙に出なくても、後継候補の選挙運動は残存能力の全てを振り絞って、合法的範囲で全力投球した。ふと、今までは立候補する側から選挙を見ていたが、一運動員として「○○さんをお願いします」とお話しすると、「ほんとに福祉、教育の充実に取組んでくれますか?」と聞かれる。私は「絶対大丈夫です」と返事をしてきた。障害当事者でないことに対する不安の声を伺っていたが、精一杯取組んでくれると期待している。選挙は終わった。10日には決まる。頂いた不安解消のための取組が今後の課題である。
 投票日、家内と孫3人で投票して来た。駐車場で商店主が「不景気だ、売り上げは昨年の半分だ、借金をまとめてどうにかしなければ」と投票に向われた。後姿を見ながら大変だろうなと思った。投票を終えて孫と公園に行った。いつの間にかブランコにも一人で乗れるまでに成長していた。滑り台にも一人で登れた。成長が早い。片平公園は広い。公園には2本の桜が植栽されている。既に満開を過ぎ、緑の葉っぱが目立つようになっている。新しい年度の始まりである。卒業、入学式も終わっている。新しい年度には、新しい気持ちで全てに挑戦して行きたいものだと思った。


2011年3月13日(日)   菜の花



 事務所から歩いて帰宅中に、「外山さん買ってよ」との声があり振り向くと、軽のバンに雑貨物を沢山積んだ車が目に付いた。近づいて見るとキューリ、せんべい等が目に付いた。この人は同級生よ、可哀想な人、昔話など色々話が流れるように聞こえてきた。中でも、仕事は建設業だったが、不景気で建設業をたたんで直ぐにご主人が他界してしまい、何かしなければと思い、始められたのが行商で、まだ何処となく慣れてないことが見て取れた。私にも責任の一端を感じ、僅かでも貢献をしなければとキューリ、せんべいを買った。「奥さんごめんナ、頑張ってよ」と声をかけてその場を立ち去った。何となく罪意識を感じた。入札制度改革、国の財政改革公共工事予算の削減によって、本県は指名から競争入札へと制度化された。結果、沢山の失業と倒産へと追い込まれていった。その一方で、大企業(資本金10億円以上5,000社)の内部留保金額は241兆円とも言われている。そんな事を考えながら、普段は車で走っているのですが、歩いて八重川沿いを家に向っていると土手に菜の花が一面に咲き乱れていた。なんともいえない幸福感を覚えた。あ〜、そうか、暫くすると30年間常に考えながら走っていたが、歩いていいんだ、考えなくてもいいんだと言うとの思いが頭をよぎった。


2011年3月6日(日)   私を選んだ龍也


「こんばんは(^^) 清武町の小林です! 今週はじめ、龍也の15年来の友達が、16歳で亡くなりました(;_;)  12月末にも 一人亡くなっていて、9歳でした(;_;)  二人とも、清武せいりゅうで、医療的ケアが必要な児童でした! 生まれし者、いつかその時を迎えるのですが、こころざしなかばというには、あまりにも可哀想すぎる年齢で… 龍也をどう生きさせるか、どう悔いなくその時を迎えさせるか、昨日今日と 泣きながらも考えてるところです!!  私を選び、生まれてきてきれた龍也に、親は何をすべきか、 考えながら 春をむかえます☆ 外山さんも ボチボチで頑張って下さいね(^-^)v 私も 頑張ります(^-^)」



●約30年間、この様な返すことの言葉を見つけることが出来ない相談の中で生活をしてきた。中でも「私を選び、生まれてきてきれた龍也」重度心身障害児の保護者が日々の激務の中で必死に生きておられることは知っています。その方が更に、「親は何をすべきか、 考えながら 春をむかえます」と言っておられます。この方には何時も励まされてきました。決して悲観的に物事を見ることなく、前向きにしかも明るく考える方です。だから「訴えていかねば」と思い30年間一緒に障害児福祉向上に取組んできた。結果、宮崎市は多少の向上は見られた。しかし、県全体を見ると前進が実感できるような状況にはない。障害種別、程度に関らず「私を選び、生まれてきてくれてよかった」と言える宮崎県作りを急がなければと思った。





2011年3月3日(木)   避寒桜


 庭に植えた避寒桜が既に葉桜になっている。早朝よりヒヨドリとメジロが沢山やってきて桜の花をつついている。ヒヨドリは木の上部に陣取り食事をし、メジロは下部の花の蜜を吸っている。時々、ヒヨドリはメジロを追っかけているが、案外すばしっこいメジロは捕まることは決してない。最後となった議員としての質問原稿を書きながら桜の花を見ている。30年間が思い出された。沢山のことがあった。訴えるが理解されず具体化されず悔しかったこと、反対に具体化され保護者と共に喜んだこと等が次々に浮かんできた。書き上げて布団に入ったが不思議なことに中々眠れず朝を迎えてしまった。こんなことは初めてであった。多分、興奮していたんだろう。今期限りで体調を崩したこともあり勇退を決めた。誰しも年を取る、よって勇退もある。大切なことは勇退を決意するに当たり、満足感があるかどうかだ。自分自身は、沢山の方々に迷惑をかけたが、満足している。時間を見つけ、「30年間の議員活動の歩み」なるものをまとめてみたい。木の下では勿論存在していなかった孫が遊んでいる。随分年を取ったものである。




2010年12月2日(木)   人間一生は、思いで作りの旅



 昨年11月入院した。検査が毎日行われた。
 結果がでた。医者の顔を見て相当悪いなと直感した。
 「ガンですか?」と伺った。「はいそうです」と素直に答えていただいた。
 「なぁ〜に、大丈夫ですよ、20mあるうちの1m切除すればいいだけですから」と、簡単に説明された。「ガン」と聞いただけで、明日がない。と思っていた。
 医者のことばで、妙に心が落ち着いた。


 この世に生を受けて62年。「ガン」の告知を受けたとき、様々なことが思い出された。父のこと、母のこと。労働組合活動。会社内での野球仲間たちの顔。
 交通事故で足を失った時、両親のうろたえた顔。
 家内との結婚、子供の誕生、成長過程の喜怒哀楽。
 子どもたちの結婚、孫の誕生。市会議員、県会議員への挑戦。


 沢山の思い出が浮かんできた。
 中でも、愛犬「コロ、チャッピー」のことが強く浮かんできた。
 子どもたちに申し訳ないが、「愛犬と会える!」と思った。


 残念ながら、今まではすこぶる元気である。
 議員も立候補しない事を決めた。今後は、勇退高踏で行こうと思っている。
 草花がすき、子犬が好き、スポーツが好きなことからお金もないが、許される限りの範囲で「最後の思い出作り」に挑戦したいと考えている。 


                 外山 良治







2010年11月30日(月)   勇退か勇退高踏か



 選挙に(立候補しない)との記事を見た方から多くの電話、メール、ハガキ等が来る。どれも、下記のような内容である。ありがたいものである。議員活動25年間、いろんな経験をした。連日市民相談で、市内等を走り回った。それに印刷業、保育所、学童クラブ、バスケット、技能オリンピック等もこなさなければならなかった。今、考えるとよく乗り切ったものだと思う。勿論、一人でできたものではない。多くの賛同者の方々と一緒に語り、議論を戦わせてきた。多くのことが実現された。その時の喜びも、当然皆一緒に涙して喜びを分かち合った。


   「外山さん。おはようございます。
   今朝の新聞を見て、とても驚きました。
   体調不良との事、具合はいかがですか?
   引退なさってしまうのは、大変残念ですが、仕方ないのでしょうね。
   今まで、本当にお世話になりました。
   また、今後もどうか相談に乗ってください。
   どうぞ、お体ご自愛下さい。」



 まだ任期は来年4月まである。残り任期はしっかりと役割を果たしたい。その後の生活は勇退高踏な生活を考えてはいるが、果たして可能かどうかは分からない。それにしても、沢山の方々に心から感謝したい。長い間、ありがとうございました。


   とやま 良治



2010年9月11日(土)   (代表質問)を振り返って



 市会議員の時から質問をしてきました。日常的に相談を受けますが、その中から質問を起こす、見聞した事を調査して質問をする等色々ありますが、今回はホームページ「議会便り」に記載している事を質問しました。答弁は、後日、時間を見てアップしようと思います。幸い、9月10日の宮崎日日新聞に答弁の一部が掲載されていました。是非ご一読いただければ幸いです。


 代表質問、一般質問であれ、どうしても質問項目が多くなって十分詰めきる事が出来ません。30年間このことで悩んできました。今回も同様でした。それでも、具体的な政策提案の内容が具体化されることも沢山あります。行政サービスが充実され、「ありがとう」の電話等頂くこともあります。その時が議員にとって一番感激します。9月になっても残暑厳しい日々が続いています。どうぞ、健康に十分お気をつけになってお過ごしください。



2010年8月15日(日)   あれから40年



  高校卒業して集団就職列車に揺られて兵庫県に就職した。視察で関西を訪れた際、僅かな時間を利用し思いで深い浜甲子園を訪れた。一年間程度過ごした浜甲子園団地はあったが、よく甥、姪を連れて行った「喫茶カトレア」は消えていた。よく仕事帰りに野球をやっていた浜甲子園厚生年金グランドは見事に荒れていた。多分、厚生年金改革の一環だろうと思った。事故にあうまでは、身長は1.8mあったと思う。野球でのポジションはピッチャーをしていた。スピードは適当にあったが、何せノーコンだった。日曜日は殆ど厚生年金グランドで試合をしていた。懐かしくて涙が出そうだった。また、姉の子どもをよく散歩に連れてきて遊んだ。今はその子どもたちも神戸市役所、西宮市役所で夫々の道でがんばっている。帰ろうと思い走っていると、沢山の高校生たちが歩道に溢れていた。あ、そうか夏の甲子園野球をやっているんだと気がついた。甲子園球場にもよく行った。今では名物のツタもなく【甲子園球場】と感じることが出来なくなっている。特に宮崎県代表の試合は殆ど見に行った。そこで見る宮崎交通バスは、郷愁を誘うのに十分だった。宮崎日南に帰りたくなったものだ。今年は延岡学園が一回戦を突破してくれた。是非頑張って頂きたいものだ。口蹄疫に伴う様々な悪い環境の下、筆舌に尽くしがたいしんどさもあったと思うが、宮崎県民の「力」を思う存分に発揮して頂きたい。8月7日で62歳になった。事故にあったのが22歳だった。丁度40年経った。僅かな時間ではあったが、40年前私が歩いてきた道を静かに歩いてみると実に沢山のことが思い出された。思い出は持ち帰ることはできない、そっと置いて帰途に着いた。歩道には高校生が相変わらず溢れていた。勝敗の結果は知らない。でも、皆明るかった。思い出が沢山できた事だろう。




2010年7月14日(水)   時の流れ



 中古住宅を購入し、数年経って新築した。新築して30年が過ぎた。30年も経つと、あちこちにガタが来ている。何回かは補修したが、随分と古さが目立つようになった。庭木で幅を利かせているのが、「避寒桜・日南1号」だ。約10年前に日南市の方から改良種を頂き植栽したものである。次に、繁茂して来たのが長野県松本城内で種を拾い庭に植えていたが、忘れた頃に芽を出し成長した藤の木である。来年には花を咲かせてくれる事を期待している。我が家に歴史があるように、家族にも沢山の出来事があった。長女が嫁いで家を出て行った。長男・次男もそれぞれ結婚し、我が家から巣立って行った。家族の一員であった犬も、コロ、チャッピー、ブッチと流れた。時の流れは速いものである。私以外にガタが来ているのが、愛犬「ブッチ」である。多分15歳だと思う。最近、私が一人と見るや、パソコンをしている私の側まで来る。そしていびきをガーガーとたてながら寝ている。ところが、家内が帰宅するとさっと立ち上がって所定の位置でドタッと音をたて横になる。犬たちもそれぞれ個性があった。「ブッチ」は前足が生まれながらない。最近、縁側には上がるが、降りるには勇気がいるらしい。何回(十数回)も挑戦するが踏ん切りがつかないらしく、見ていて可哀想になる。時々お尻を押してやる。押されると自分のタイミングではないせいか、あごを強く打つ。その都度睨まれる。いかにも「自分でできる、いらん事するな」と言っている様であるこの犬には随分癒された。大手術をして我が家に生還したとき、尻尾を大きく振って「お帰りを」言ってくれた。そのブッチも今年の夏が越せるか自信がない。随分弱ってきている。一日でも長く生きしてほしいと願っている。
 小学2年になる孫から電話があった。「じ〜じ」水泳で「バタフライ・クロールで一等にになった」とする内容である。後ろから、息子が「プレゼント」と言っている。「じ〜じ、ご褒美頂戴」始めから敵側の魂胆はわかっている。「証明するものは何があるの? どうしてじ〜じを誘わなかったの?」と意地悪く聞いてみた。孫曰く「だってプールは、階段が多くてじ〜じは上れんがね」と返事が返ってきた。子供子どもと思っていたが、いつの間にか成長している。これには参った。ご褒美を買ってやらねばと思った。




2010年6月11日(金)   励ましの言葉



 東京にいる娘から学校便りが届きました。校長先生の話「命について」が記載されていました。一部を紹介します。宮崎の口蹄疫に関して、殺処分を余儀なくされた畜産農家の人々、担当職員、直接手を下さなければならなかった獣医さん達・・。それぞれの苦悩と悲しみになんともいえない気持ちです。ある新聞に中学生の投書が載っていました。率直な気持ちが記されています。抜粋ですが、【感染拡大の防止とはいえ、何故殺処分なのでしょうか。仮に口蹄疫のような病気が人の間で広まったとしましょう。たとえ決定的な治療薬がなくたって、感染の疑いのある人を殺すことはないでしょう。人の病気なら感染が広まっている最中でも、感染力が強くとも、隔離されることはあっても治療薬、予防薬の開発を急ぐでしょう。家畜も大切な命です。人間以外の生物たちの命を守る薬品開発にも力を注いでください。】このような病気が流行しなくても、私たちが食べる為に毎日多くの家畜が、魚たちが殺されています。ご家庭でもお子さんに分かる範囲で、「命について」、【食について】考える機会にしてください。



【こんばんは。夜分にすみません。
種牛49頭の処分は非常に残念です。
農家の皆さん、宮崎の皆さんの事を思うと胸が痛みます。
しかし、日本各地で宮崎産のお肉を買って宮崎を支援しよう!とか、
宮崎産のBBQをして宮崎を応援しよう!など、日本中が宮崎の事を思っています。



もし、農家の皆さんに会ったら、(こんな小さな事ですが)日本中が宮崎の事を思っている事、目覚めた国民が真実を知っていることをお伝えできないでしょうか。】



※コメント 全く知らない人から沢山の励ましのメールが来ます。本当に元気が出ます。私事で恐縮ですが、約40年も前、会議(組合の教宣部)に遅れると考えながら、春の社会人野球の公式戦のためバッティング練習をしていたことまでは記憶していますが、気がついたのは病院のベットの上でした。気がついて、足がない現実を知るまでには約3〜4週間が必要であったと思います。「これで立ち直ることができるだろうか?いっそ死んだ方が!」等々悶々とした時間が経過をしました。しかし、沢山の方々の暖かい励ましが連日寄せられ「一人じゃない」と前向きに考えることができました。今回の口てい疫によるショックは畜産農家を中心に深いものがあると思います。都城、宮崎、日向など新たな感染拡大が見られ、より一層深刻な状況となっています。でも、ここから石にかじりついても頑張りぬく覚悟を決めて、再建に取り掛かって頂きたいと思います。全国に沢山の暖かい励ましをおくって頂く方々がおられます。がんばれ宮崎!ガンバロウ宮崎!




2010年5月30日(日)   孫の成長


 「ジージはちっちゃいね」と初めて私の体が普通ではないことを口にした。また、「足」先が丸くなっているのが面白いらしく「おかしいね」と盛んに触りたがる。よく泊まりに来るが「ジージとねんねする」と言ってくれる。かすかな喜びはあるが、十数冊も本を持ってくる。「読んで」これにはホトホト疲れる。一ページでも飛ばすなら「ダメ」と言われる。最初は4〜5ページ飛ばして読んでいたが、最近では次のページはどんな絵がある、動物の写真がある等記憶しているらしく通用しなくなった。みっちり一時間程度の仕事である。昨夜も一緒に寝た。真夜中に何度も起こされる。布団から飛び出ている。起きて布団に引き込んでやる。何度もこの繰り返しである。風呂も一緒である。「モモと一緒に入れ」といっても「ジージと一緒」と泣くので最後には私が入れることになる。風呂が大好きで中々あがろうとしない。私は体が半分しかないのですぐ終わるが「孫」の風呂は水遊びである。私のおなかは、交通事故のとき約15cm、また、最近の手術で同程度の深い傷が2本ある。それに指を入れて「オカシイネ」と楽しんでいる。とにかく私の「身体」に興味を示し始めた。更に、何時も変なもの(車椅子)に乗っているのでこれが面白いらしく、散歩は何時も「ちよちゃんも乗る」と言って車椅子の前に立ちふさがる。仕方なしに載せてしまうことになる。これでは散歩とはいえないような気もする。小学校1年の孫は一切身体のことは言わない。娘の子供も全くいわなくなった。足がなく、車椅子に乗っているのが自分たちの「ジージ」だと思っているのであろう。2歳半の孫だけが「へんなの、おかしいね」の連発である。帰宅すると、今日も孫が来ている。散歩、お風呂、本読み等を考えるとゆっくりしたいなと考える。でも、2年もすると相手もしてくれなくなる。今が一番可愛く、楽しい時だとは分かっている。淋しい気もするが、成長する【孫】を見ていて、自分の老化と比較しながら複雑になる今日この頃である。



2010年5月28日(金)   怒りと驚き!


 障がい者制度改革推進会議、総合福祉部会の議論・動向を無視し、明日(5/28)に障害者自立支援法の一部改正(悪)法案が採択されようとしています。
 信じられないことですが、この法案は、昨年の春に自民党が提案し廃案となった改正法案を、民主党がほぼ丸呑みしたものとなっています。制度の谷間の問題、知的障害者などの移動支援の問題、サービス利用計画の拡大等の問題はそのまま残っており、非常に多くの問題のあるものです。
 障がい当事者・保護者は、障がい者の地域生活を阻害する障害者自立支援法の廃止を求めて運動してきた。昨年9月に成立した新政権はその声を真摯に受け止め、障害者自立支援法の廃止を約束した。
 長妻昭厚生労働大臣は、昨年の就任時に「応益負担を基本とする障害者自立支援法を廃止し、任期中に制度の谷間をつくらない新しい法律を当事者の意見を十分に聞いてつくる」と明言し、さらに、昨年10月30日(金)、日比谷野外音楽堂で行われた10.30全国大フォーラムにおいて、参加者一万人の前で「一期4年の間に自立支援法を廃止し、みなさま(障がい者)や家族、広く利用されるみなさまの意見に謙虚に耳を傾けながら、新しい制度をつくりたい」と述べていました。そして、新政権の公約によって設置された「障がい者制度改革推進会議」のもとに「総合福祉部会」が作られ、現在、新法(障害者総合福祉法(仮称))制定までの「当面の課題」について議論の真っ最中という状況と伺いました。また、障害者自立支援法違憲訴訟に関連して、「障害者自立支援法違憲訴訟原告団」は国の提案を受け入れ、基本合意を交わしています。
 その中で、「障害者制度全般の改革のため、障害者を中心とした推進本部で総合的福祉制度を策定し、障がい者の参画の下に十分な議論を行う」とし、これらの実施状況を検証していくために、国・厚労省は「訴訟団」との定期協議を行うことを約束しています。
 このような経緯にも拘らず、今回、「改正」案が提出されようとしている。看過出来ないのは、まず、法案の作成から提出に至るまでの当事者参画などの手続きの問題があります。これまで、この件に関して、与党と障がい当事者や関係団体との話し合いが全く行われていないようです。5月12日に日本障害フォーラム(JDF)とのヒアリングの際にも与党からは全く示されず、5月20日の新聞報道等を通して、5月末の衆議院での採択の動きがあることを初めて知った次第です。
 次に、内容の問題ですが、昨年3月、旧政権下で政府提案として提出した法案とほぼ同じ内容であるということです。
 谷間の障害者の問題の解決が先送りされ、移動支援や手話通訳・コミュニケーション支援事業など、地域生活支援事業の市町村間格差問題は何も解決されていません。また、障がい者の自己決定を尊重しないサービス利用計画拡大の問題や、自立支援医療の応益負担の廃止が盛り込まれていない等、基本合意の水準を下回っている部分まであります。こうした障がい当事者抜きの拙速な決定は決して許されるものではありません。
 障がい者制度改革推進会議および総合福祉部会の議論を優先させるべきと思います「私たち抜きに私たちのことを決めてはならない」。と、いうのが障がい当事者の願いです。



2010年5月19日(水)   口てい疫


● 宮崎県内で口蹄疫の感染・感染疑いが拡大(18日現在、126例で、殺処分対象の家畜は11万4千頭)し、新富町の農場でも感染疑いを確認したことに伴い、18日に同農場を中心とする移動・搬出制限区域が新たに設定される。この様な中にあって、連日の様にしかも午前1〜3時にかけて感染状況がファックスで送られてくる。実情を見るにつけ関係者のご苦労・心労が伝わってくる。私も農家生まれとして農業のしんどさは十分理解しているつもりである。沢山の実をつけたポンカンを見て今年は豊作だと思っている年に限って強烈な台風がやってくる。寝ていても、強風が雨戸を叩く音で中々眠ることができない。翌朝まだ暗い中、父は蜜柑山に登って行く。私たち兄弟は暫く後に蜜柑畑に着くと、折角実をつけた蜜柑の木がバタバタとなぎ倒されている。また、沢山の実が落下、散乱している。これら惨状を見て愕然としたものである。これが豚・牛のように生き物であった場合を考えると、しんどさはより一層深いものがあると思う。家族を養う為に「生産をして少しでも高く売る」と言う経済行為に加えて、生き物の場合は愛情が多分に加味されるのではないかと思うからである。宮崎日日新聞に、「豚を埋める重機のガチャンガチャンという音が耳について離れない」とあった。生産農家の心情を見ることができる。●早朝、畜産農家の方から電話があった。「最近、父が亡くなりました。その時はある程度覚悟を決めていたからでしょうか、悲しみはそんなに深くはありませんでした。ところが、県家畜改良事業団(高鍋町)の種雄牛49頭が殺処分になることをニュースで知り号泣しました。何とか止めて下さい」「牛は売ることもできません、でも請求書は次から次ときます。ストレスで頭が変になりそうです。」等々泣いて訴えられた。この訴えに対して、私は何一つ応えることが出来なかった。ただ、保健所・県税事務所等の電話番号を案内し、力には成らない励ましの言葉をかけることしかできなかった。ただただ一日も早い終息を祈るだけである。



2010年3月13日(土)   ぶらり散歩


● 市民プラザの一角に福祉関係者が運営している「カフェ・クレイン」をオープンされたとの話を以前聞いていたので「近い内に」と思ってはいたがついつい行きそびれて今日になってしまった。メニューはサンドイッチ・コーヒー・ホットドッグ等でとっても美味しかった。ただ、カレー、うどんなど軽い食事等あればナ〜と感じた。関係者の皆さんよろしくお願いします。



2010年2月26日(金)    ICU(集中治療室)命の叫び。


●約4時間の手術が終わった。ICUで3泊することになった。術後、痛みにうなされていた。全く眠れる状態ではない。加えて、隣の病室からナースコールのような音が連続且つ不規則に聞こえてくる。痛みに必死で耐えているのに気が変になるような音にはホトホト気が滅入ってしまった。「私は、痛みに我慢できない患者がナースコールを鳴らし続けているのではないかと思っていた」。看護師さんに「音は何の音か? ナースコールなら何故すぐ対応しないのか? 消音できないのか?」など伺った。看護師さんの丁寧な説明によると、「心臓手術をした患者の人工呼吸器と自発呼吸のリズムが合わないときに鳴る音である、よって消音はできない、今、調整中だから暫くすると調整ができるはずだ、暫く我慢してください。」であった。説明を伺って発せられる【音】は患者にとって命の叫びであることが分かった。説明を伺って、「音」が鳴ってもイライラすることもなく「あの患者も頑張っている、俺も頑張ろうと考えるようになった」。看護師の説明の通り、午前1〜2時ごろには「音」はしなくなった。●患者5〜6人で話していると、一人のいたって健康そうな若い患者が話の輪に参加した。すると、年配の患者が「お前は何処が悪いのか?」と聞いていた。「白血病です」と真面目に答えた。「治療方法は?」とさらに聞かれた。「24時間連続で点滴をしています。」と答えた。わたした「大変だろうな」と思っていた。ところが、年配者が「そんげらんことして治っとか?」と発した。ここで話が一瞬途切れた。「治るか治らないかやってみることしかないじゃろ」と、輪の中の一人が声を発した。私も随分「足はどげんしたな?」と聞かれた。意外であったが、患者は都城、小林、延岡、西都、日南等々県下全域から入院されていた。日向の患者と話す機会があった。仕事中、大型トラックのバッテリーを修理中破裂し、金属屑が眼に刺さり、その眼に硫酸?がかかった。救急車で告知病院にあたったが、全て断られた。更に運悪く延岡県立病院には眼科がなく止む無く宮崎県立病院まで約1時間30分かけて搬送されてきた。「あの時の激痛は表現できない」と話された。今まで2回手術をした。後、数回手術が必要である、最終的には0.5〜0.6程度見えるかどうかだといわれているとの事だった。宮崎3県立病院の医師は10名不足している。そのうちの一人が延岡の眼科だ。本当に申し訳なく思った。



2010年2月22日(月)   退院しました。


●長期入院は、今から約40年も前交通事故で両足を切断して以来。その間、いたって健康だった。勿論40年間の長い年月の間には小さな入院は幾度となくしている。今度の入院は兎に角色々考えさせられる入院だった。急激に体力が落ちていた、両腕で身体を持ち上げることができなくなった、座っていてもフラフラする、バスケットのボールを投げることが出来なくなった等々体調が思わしくないのを実感できた。県病院へ行って診察していただくと「入院です。」といわれた。入院したのは昨年の暮れ。約3ヶ月の入院生活であった。すっかり体調が回復した。入院生活を送る中で心配だったのは愛犬の世話と庭の手入れだった。ところが、犬の毎日の散歩、食事等の世話、庭の手入れ等は団地の方が私たち以上にお世話していただいたようで、帰宅してみてビックリした。庭の梅、日南寒桜一号はすでに散っていた。菜の花が三分咲きといった所だった。何方かのお届けものかは判らないが桜草も咲いていた。植えていたパンジーは今が盛りと咲き誇っていた。3ヶ月という時間の流れが実感できた。また、何時ものことではあるが、沢山の方々に沢山のご心配・ご迷惑をかけてしまった。深くお詫びいたします。入院期間中も、沢山の相談を受けた。殆どそのままになっている。ご迷惑をかけているが、退院後、一日も早く早急な対応を考えている。本当に申し訳なく思っている。



2009年11月17日(火)   国保沢内病院を訪ねて思ったこと


 常任委員会で国保沢内病院を視察した。正式に視察したのは初めてであった。質疑の中で、「沢内病院」の理念は今でも継承されていますか? と質問をした。国保沢内病院の委員長は「私は、そのために病院にいます。旧沢内村民の心にはあります」と答弁があった。ただ、嬉しかった。


国保沢内病院 (目標)の中に、以下のことが記述されていた。
1 すこやかに生まれる(健全な赤ちゃんを産み育てる)
2 すこやかに育つ(心身ともに強靭で聡明な人づくり)
3 すこやかに老いる(健康体老人づくり・不老長寿・生存限界年齢・自然死への接近)

 これらの目標を実現するためには、誰でも(どんな貧乏人でも)、何時でも(24時間365日生涯にわたって)学術の進歩に即応する再審・最高の包括医療サービスと、文化的な健康生活の保障を享受することが必要である。

 今から約30年前、深潭晟雄村長の「私の政治理念」を読んだことがあった。その中には、「旧沢内村は、日本のチベットといわれるほどの豪雪地帯で冬が長く、多病・多死による健康問題や度重なる凶作による県下一の貧困の村で、豪雪・多病・貧困の三悪との闘いであった。これを克服するために学校教育の場からも三貧追放(体の貧乏、経済の貧乏、心の貧乏)を掲げ、無知で盲目的で不和であり封建的で消極的な生活の貧しさから立ち上がり、衛生観念が強く明朗で明るく、開発精神に燃え生産性を高める活動的な人づくりを率先し、健康で豊かな明るい村づくりを提唱してきた。この中で培われた村民性は、激動する現代社会にあって「保健医療の村、治雪・活雪・親雪の村」を創りあげる原動力となっており、沢内病院と保健福祉課(旧健康管理課)を核とした保健予防活動は健康な村を作り上げた。」と記述されていた。極めて厳しい環境の中で、老人医療の無料化、乳児死亡率が一番高かった沢内村をゼロとした。等々三貧追放(体の貧乏、経済の貧乏、心の貧乏)を掲げ見事に解消した。理念と実践は見事である。この理念と実践を <日本医師会長 我見太郎氏は講演の中で>「人間の命と健康を守るためには5つの段階がある。第1は健康増進、第2は予防、第3は検診、第4は治療、第5は社会復帰である。このうち健康増進・予防・検診は保健であり治療・社会復帰は医療である。ところが国も県も市町村、もこの保健と医療を完全に分離している。人間に保健の体と医療の体と二つあるはずがない。この二つを総合した体制が必ず必要である。
 「この体制を私は包括保健医療体制と名づけている。この体制を是非沢内で実現してほしい。国は必ず沢内村の体制をモデルに保健と医療の総合体制に変わってくるものと思う。住民と行政と病院が一体となってこの体制を勧めていくことを地域医療という。したがって病院の役目は単に患者の病気を治すためではなく、人間の生命が完全に燃焼しつくすまでの地域医療の中核となって行かねばならない。」と言わしめている。

 最近、年を取った所為かも知れないが、諦めが先行してきている。国保沢内病院を視察して、「これではいけない」と心新たにした。思いの丈を訴え続けよう。



2009年11月3日(火)   足は何処にほかしたな!



 身体障害者授産施設向陽園を訪問した。一人の利用者が「足は何処でほかしたな」と問われた。22歳のとき、「兵庫県で交通事故にあって両足を失った」と答えたところ、本当か、嘘かはわからないが「俺は、飲んでしまって線路で寝ていたところ気がついたら足がなかった」と話しておられた。「でも、俺は歩けるぞ、お前はあるけんじゃろ」と、また話してこられた。確かに私は歩けない。Mさんの場合は、関節があるし、最近の義足の性能からすれば走れると伺ったことがある。ところで、身体障害者授産施設向陽園の設置目的は、「身体に障がいがあり、一般就労が困難な方に対し、就業の場を提供し、一人ひとりの個性や技能に合わせて必要な訓練を行うことにより、自立できるよう支援するための施設」である。歩ける人が入所生活をし、歩けない私が地域での生活をしている。向陽園は、昭和47年に開設されている。平均年齢(入所者)57歳、(通所者)48歳。平均在園期間24年、障がい種別は肢体不自由、聴覚障がいで28名、知的障がい5名。工賃の平均月額は約8千円(入所部門)。Mさんも約30年間の長きに渡って入所していると言われていた。「一般就労の困難な方」、「一人ひとりの個性や技能に合わせて必要な訓練を行うことにより、自立できるよう支援するための施設」と設置目的に謳われている。私が見た感じでは何れの方も十分実社会で生産活動に従事し、自立可能な方々に見受けられた。しかも、工賃の平均月額は約8千円(入所部門)であるとの説明があった。向陽園は、昭和47年に開設されている。昭和47年といえば私が事故で両足を失った年である。当時から兵庫県では総合リハビリセンターがあった。障害者職業訓練校もあった。よって私のような人間は社会復帰をすることが普通であった。今もってその何れも存在しない宮崎県では、仕方なしに月8,000円での生活が現存する。地方議員となって早いもので数十年が過ぎてしまった。繰り返し、これらの必要性を訴えてきたが、一向に改善されない。Mさんは北川出身といわれていた。「田舎のことはもう忘れた」と寂しくいわれていた。もし、この方が兵庫県出身で、私と同様の道を歩いていたなら、今頃結婚をされてお孫さんに囲まれての生活をされているに違いないと思った。隣では、私たちがバスケットボールの練習を身障センターでしていたころよく見かけていた方が木を磨いておられた。「外山、年取ったな」と声をかけてくださった。「お互いに」と言葉を返した。約35年も前のことである。行政の貧弱さがこうも障がい者生活を落としめているかと思うと自分の罪の大きさと行政に左右される障がい者の現実を改めて認識させられた。Mさん、近い内に遊びに伺います。寒い冬も近づいています。体をご自愛ください。




2009年10月19日(月)   甥の死



 僅か37歳で甥が急病死した。思いもかけない「死」であった。遺族代表挨拶をやらされた。初めての経験だった。言葉にならなかった。不思議と「甥」のことより「兄・姉」のことが可哀想でならなかった。遺骨を前にして「息子の葬式をすることになるとは」といって泣き崩れた。私たち兄弟は、貧しい家庭で6人片寄せあって生きてきた。今では、それぞれ決して楽な生活ではないが、結婚して「孫」の成長を楽しんでいる日々を送っているものと思っていた。突然の「甥」の死であった。たった一言のお別れの言葉を残すでもなく、また、かけてあげることもできないまま、一人旅だって行った。残念でならない。当然、「甥」が一番辛かったであろうことは言うまでもない。天国より「兄の家族」を見守っていてくれ。
 「助けてください」と言う70歳代後半の方から電話があった。何時ものことであるが「早速対応しなければ」との強迫観念から電話の主宅へ急いだ。話の内容を伺ってみると、「大変だな」と考えてしまった。旦那さんは最近亡くなった。生前はアル中で随分大変であったらしい。最近は、息子さんが同様の患者で離婚、孫(2人)の世話もしなければならない。更に、一番心配なのは飲んで車で外出している。人様に怪我でもさしたらと考えると心配で眠ることもできません。等々一気に話された。私がお伺いした時、関西から妹さんもお姉ちゃんが心配でこられていた。息子さんも呼んで頂き色々話す事ができた。しかし、次の日も「外出した」との電話があった。再度、「土か日曜日に来て下さい」との電話があった。
 暫くすると、また深刻な電話相談があった。「息子夫婦が会社を首になった。二人には子どもが3人いる。俺の家に来ているが7人一緒では生活できない、生活保護を申請しているが、子供3人いると入居させてくれない、孫2人は学校にも行っていない、何とかならないか」との相談だった。この件も早く対応しなければと焦りがある。こうも毎日深刻な相談があると自分自身がつぶれそうである。議会で、執行部の説明を聞いていると完璧である。説明して頂いている事が社会実態を映しているのであればどれだけ平和であろうか。あまりにも説明内容と現実はさがありすぎる。執行部側に認識がどれだけあるのかが知りたい。多分分かってはいるが議会では認めることが出来ないのであろうと思う。勝手な思い出はあるがそう思いたい。どうれ、明日は休みだし、相談者宅へ説明に行くか!



2009年8月21日(金)   ミニ総会



 宮崎県総合保健センターにおいて、障がい者総会があり参加した。案内時間の出席であったが、参加者は数名であった。当組織の現状と行政・社会的理解度を反映したものとおもわれた。突然、司会者が「外山さん、何でもいいから問題提起をしてください」と指名された。戸惑いを感じながら「精神障害者の人々を主な対象とする入院患者は34万人と少しも減っていない。ここほぼ10年横ばいが続いている。精神保健福祉法の改正によって「居宅支援事業」が制度化され、社会復帰施設の利用も窓口を市町村に移すなど、制度的には整備は進んでいるとはいえ、そのための国の予算は、わずか200億円にも満たない額である。知的障害者(約30万人)の福祉予算約2,000億円余である。
 わが国の精神障害者問題が、いかに立ち後れているかをほとんどの関係者は承知していながら、現実を変える力となっていない。障害当事者は、これまでの運動のあり方を考え直した上で、脱施設化への行動指針をつくり、ダイナミックな行動と組織化が必要なのでは」と話してしまった。その後、ある地域のPSWの方(?)が「まだ一人も就労移行実績がない」との発言もあった。障害者雇用促進法の対象とされて時間はたっていない。ましてや、肢体・知的障害者で法定雇用率に達している。精神障害者の雇用はどうしても敬遠されてしまう。だとすれば、障害者雇用促進法を「精神障害者の別枠採用法定義務化制度」と一部改正する必要があるのではないかと考える。
 障害児を持つ「おやじの会」の交流会への参加要請があった。「約10名程度の参加者しかありませんが」とのことであった。普段は殆どが「お母さんの出席」であり、今回も同じであろうと思っていたが、ところが今回は「おやじの会」に魅力を感じ喜んで出席した。結論から言うとお母さんたちとの話の内容と全く同じであった。「心中を考えたこと」「親亡き後が心配である」「会社の仲間との飲み会へ参加していても心落ち着けて飲めない」「勉強のこと・就労のこと・家族のこと」等々話は尽きなかった。あるお父さんが「家内に感謝している、よく今日まで頑張ってきてくれた」と呟くように言われた。あの一言が全てを表していると思った。24時間バスケットへの参加もあり中座となったが、「父ちゃんも母ちゃんも頑張れ!」と叫びたくなった。



2009年8月12日(水)   誕生日



●8月7日は私の誕生日である。前日東京の孫から電話があった。「じーじ、おめでとう。明日花送るからね」。多分、娘が電話をさせたのだろう。午前11時ごろに花が届いた。息子も姉の花を見て「親父の誕生日」を思い出したのだろうお金を差し出し「いい物を買え」といった。「欲しい物はない」といって受け取らなかった。それでも息子の嫁には「ありがとう」と言っておいた。夜、孫(小学校1年生)が来た。「じーじは何歳になった」「何歳と思う」「30歳!」「ウン、30歳だ」「鉄平の父ちゃんは何歳か?」「えーっと、32歳」「じーじは鉄平の父ちゃんより若いんだ」と言うと、「ウン、若いね」こんな時だけ可愛いと思う。●それにしても早いもので61歳になってしまった。運よく61年も生かされてきた。振り返ってみると実に様々な出来事があった。中でも事故で両足を失った(22歳)こと、結婚、3人の子供の誕生、自立印刷開業、市会議員立候補、父の他界、孫の誕生、愛犬「コロ・チャッピー」の死等々泣き笑いの激しい波乱万丈の61年間であった。男性平均寿命を目安に考えると余命年数は20年余となった。相当無理をしているし、もっと短い命のような気がする。残り僅かな「時間」、大切に使いたいものである。●傍らでは3代目愛犬「ブッチー」がいびきをかいて寝ている。猛暑の中、外での生活は大変だろうと家内がクーラーの効いた部屋にねかせている。こいつ贅沢だ!と内心思っている。ブッチーは、前足が不自由の障害犬として生まれ14年目を、今生きている。最近めっきり年を感じさせる。動きが鈍くなってきた、散歩の時間が以前の倍程度長くなった、寝ている時間がやたら多い。精一杯可愛がってやろうと思っている。●最近、動物愛護団体の方からショッキングな話を窺った。猟犬を飼って猿害防止策に充てていたが、不要となると犬管理所に処分を依頼されるケースが増えてきているそうだ。とんでもないと思った。早速調査してみたいと思う。もし事実なら早急な善後策を講じる必要がある。全く関係ないことではあるが、宮崎県で、変死体件数が平成20年は1,478体となった。年々増加している。子どものためにと必死の思いで頑張って来た人が、命を閉じる時には誰からも看取られる事なく死んでいく方である。あまりにも悲惨である。一方、人間様の作った作物を猿害から守ろうと頑張って来た犬に対してあまりにも非情であると思う。許されていいはずがない。



2009年8月6日(木)   松本市中学生からの便り




 2年前、長野県松本城を旅行したさい、開智小学校の二人と知り合いになった。私が、車椅子バスケットのユニフォームを着ていたので「東国原知事の宮崎の人だ」「知事のサインがほしい」とお願いされ約束してしまった。帰郷して、知事にお願いしたところ快く応じて頂き早速サインを二人に送った。昨年だったと思うがその子どもからお礼のハガキが届いた。内容は、サインのお礼と合せてサッカーが大好きなこと、できたら宮崎の人と友達になりたいこと(できたらサッカーの好きな人)等が記されてあった。忙しさのあまりつい忘れていたが一週間前に近況報告の手紙が届いた。手紙には「中学生になったこと、サッカー部に入部したこと、試合で2得点したこと」などが記されていた。そして、「お友達になりたい」「紹介してください」とあった。この点をすっかり忘れていた。早速、赤江中学校に走って、サッカー部の先生にお願いをした。「子どもたちに相談をしてみます」との言葉を頂いた。交流が始ってくれればと思っている。





 

●開智小学校


開智学校は、明治6年5月6日、筑摩県学を改め学制による小学校として、廃仏毀釈で廃寺となった全久院の建物を仮の校舎として開校。新校舎は明治9年4月に全久院跡地に竣工し、昭和38年3月まで約90年間使用された、わが国で最も古い小学校のひとつ。




2009年7月28日(火)   国政転身騒動を陳謝 全協で東国原知事




 7月23日2時30分から開催された全員協議会で、東国原知事は自身の国政転身騒動について「一連の言動で県議会、県職員、県民に多大な迷惑、ご心配、誤解を与えたとして、陳謝しました。
 全員協議会の冒頭陳謝に続き、議員からは
1.(知事選で約束したマニフェストは)8割くらい達成した。(任期満了まで)宮崎でぷらーっとしてた方が楽だ(宮崎県日南市の政治資金パーティーなどで)
2.僕がいく党は負けない。負けさせない。国政を担うとなれば、私の考えを継承できる方にお願いする。次の知事は、かいらい政権ですね(宮崎県高千穂町で開かれた県民対話集会で)
3.「辞職して、知事職を続けていいか県民に問うべきだ」
4.安藤事件を受け知事選に立候補した東国原知事は、知事選挙で「『脱しがらみ』を図るため、一党一派に偏しないと公約されていました。にも拘らず自民党にすり寄ったことは県民に対する背信行為だ。県政を混乱させ、不信を招いた責任を取り辞職すべきだ」等々厳しい質疑が出されました。
 これらの質疑に対し、「多大な迷惑、ご心配、誤解を与えた」を繰り返されるだけで明確な答弁は聞かれませんでした。ただ、「今後とも県政発展に一日一日、全身全霊まい進する。県民、県議会、県職員にご協力をお願いしたい」と責任を取っての辞職はしないことだけは明確に答えられました。
※7月27日付け宮日新聞窓欄「知事続投表明 指示しますか?」と題する以下の内容とする投稿が掲載されていました。
【「本当にこれでいいのだろうか」。知事が残り任期を全うするという発言を聞いて思う。今回の騒動で、知事の政治姿勢をはじめ、さまざまなことが明らかになった。特定政党と緊密な関係を保ったこと、自身のマニフェストは放っておいても達成されるレベルのものであると考えていること、地方分権が最大の関心事であることなどである。
 では今後、県民は知事を支持していけるのか。県民が知事に期待したのはしがらみの無い透明性の高い県政。行政を信じられる宮崎をつくってほしいと言うことであったはずである。しかし知事は、県民の声にこたえようとする姿勢から完全に変節してしまった感がある。県民は知事続投を単純に安堵(あんど)していては、他県民から政治的民度の低さとお人よしぶりをちょう笑されるかもしれない。
 この際、知事は自分を支持するか県民に問うべきではないだろうか。リスクヘッジの手段として知事の椅子を使うのは県民を愚弄(ぐろう)するものである。】

 また、「43名の県議は知事から馬鹿にされちょる」怒る時は怒らんか!さらに、辞職勧告決議をすべきである。やらないなら、県民運動を起こす。彼が辞めるまで、県民の怒りはおさまらない。私は絶対に許さない。等々抗議の電話、メール、手紙が寄せられています。
 国政転身騒動に関し、東国原知事の一連言動は辞職に値するか否かの判断は誰がするのか、東国原知事は辞職という選択はしない事を明らかにしています。確かに議会が辞職勧告決議案を提出するのも一つの方法と思います。
 以前、中山国務大臣は●成田問題=成田空港整備に関して地元に「ごね得」があったとの発言。●日教組=「日教組の子どもなんて成績が悪くても先生になる。だから大分県の学力は低いんだよ」などと一連の問題発言の責任を取って辞職されています。
 政治家は、言葉がいのちとよく言われています。知事自身の著書の中で「私ほどメディアの恐ろしさを知っている人間はいない」と記してありました。また、「大人は、子どもの鏡たれ」とも言っておられました。今回の言動を見ると、まさに言行不一致ではないでしょうか。県知事を続けたいなら県民に再度、信を問いなさい。それは、宮崎県に住む県民の一人として、あなたを全く【信頼】出来なくなったというのがその理由です。頂いた手紙の一部です。
 「メディアの恐ろしさ」とありました。あくまでも私見ですが、私は、マスコミはニュースを報道するものと思っていましたが、今回の国政転身騒動に対するマスコミ報道ぶりを見ていると、【マスコミはニュースまでつくる】といった感さえ覚えました。最近、一種の恐怖さえ覚えています。マスコミの皆さんすみません。



2009年6月28日(日)   子供より親が大事



 杉本 眞人(すぎもとまさと)さんが唄っている「吾亦紅」のCDを頂いた。
 歌詞の中に「髪に 白髪が混じり始めても  俺、死ぬまで あなたの子供」の一節がある。不思議とこの歌詞にはまってしまった。60歳になって、私の父も既に他界してしまった。母は痴呆で私のことは全く記憶してくれていない。最近、無性に親のことが思い出されてくる。そして無性に昔の生活が懐かしく思い出される。理由はさっぱり分からない。多分、子供たちもそれぞれ巣立ち、寂しさがあるのかもしれない。子が親を慕う心「俺、死ぬまであなたの子供」が切なく、子が親を慕う一途の愛の表現だと思う。約50年前は、親に甘えることなどできなかった。来る日も来る日も働かされていた。家族旅行、親父とのキャッチボール、買い物など家族と一緒に楽しんだことは無かった。でも、貧乏生活を恨んだことは一度も無かった。むしろ両親の頑張りで今の生活ができ得ていることに感謝している。感謝を言葉で伝えたいが、今となってはそれができない。悔いが残る。
 精神的に不安定なお母さんの相談に乗って頂きたいとの電話があり、事務所で待っていると、若いお母さんがお見えになった。子供(5歳)は自発呼吸が出来ない、脳死の宣告を受けた。しかし、髪も爪も伸びる、私の機嫌がいい時は顔の表情が穏やかである、くすぐると笑みを見せてくれるように感じる、床擦れ防止のため体位を変える時身体は温かい、私の宝です。等々一気に話し出された。衆院で臓器移植法が可決されたら私の子供どうなるのでしょうか?それが心配です。お母さんには、「保護者の同意が前提ですから心配されなくて良いですよ」と伝えた。「何となく落ち着くことができました」と言って帰宅されました。約1年、わが子への奇蹟を信じての生活は大変だろうと思った。何よりお母さんの子への愛の深さを知った。
 ふと、太宰治の「桜桃」の書き出し「子供より親が大事、と思いたい。」を思い出した。比較すること自体に無理があり、お叱り受ける事を覚悟で申し上げると私は「子供より親が大事」断言したい。親が一生懸命に生きていたら、子どもは勝手に自分の道を切り開くと思う。これが私の今まで生きてきて得た結論である。「吾亦紅」を聞きながら普段受けている「子どもへの理屈抜きの深い愛」等の相談を考えた。勿論、「勝手に自分の道を切り開く」ことのできない子どもへの保護者の思いは別枠で論じる必要があると思う。



2009年6月27日(土)   差別に対し合理的配慮もとめる判決!



女子生徒の中学入学命じる=「障害で拒否」の町に仮決定−奈良地裁 


 6月26日時事通信によると、【奈良県下市町立中学校への入学を希望していた身体に障害を持つ谷口明花さん(12)=同町=と両親が、町教育委員会を相手に、入学を認めるよう求めた訴訟で、奈良地裁は26日、同校への入学を義務付ける仮決定を出した。代理人弁護士によると、中学校入学での仮決定は珍しいという。
 決定によると、校舎には手すり付きトイレが設置されているなど、設備などに不都合はないと指摘。「中学校教育の期間はわずか3年間しかないのに、提訴してから既に3カ月近くが経過しており、緊急の必要性がある」と、同日からの女子生徒の入学を認めた。
 訴状などによると、明花さんは両足と右腕が不自由で、3月に町立小学校を卒業。下市中への進学を希望したが、同校は施設未整備などを理由に、入学通知を出さず、特別支援学校への進学を要請していた。】


※「合理的配慮」とは、特定の場合において必要とされる、障害のある人が他の者と平等な立場ですべての人権及び基本的自由を享有し又は行使することを確保するための、必要かつ適切な変更及び調整であって、不均衡または過度な負担を課さないものをいう。
 なお、「合理的配慮」の定義においても、差別の定義と同じ記述を用いて「他の者と平等の立場で」とされ、その目的が明確にされている。




●6月議会一般質問で、障害者権利条約早期批准と、宮崎県障害者差別禁止条例制定について知事に質問をしました。内容の一部を紹介します。


※【オバマ米大統領は深夜のバラエティー番組で、自分のボウリングの不得手さを語る中で「スペシャルオリンピックスのようなもの」と笑いながら話し、知的発達障害者への差別発言に対し、スペシャルオリンピックス委員会のシュライバー委員長は「こうした言葉は知的障害者に痛みをもたらし、偏見を定着させる」。また、ダウン症の息子を持つペイリン・アラスカ州知事も「世界で最も力のある立場の人間による、世界中で最も大切で素晴らしい人たちをおとしめる発言だ」として「衝撃を受けた」との声明を発表している。


 2006年に国連総会で採択、2008年5月に発効した「障害者権利条約」は、社会が障害者を、社会の一員として認めていくことに大きな影響を及ぼすものになっているが、日本政府は批准していない。
 また、千葉県や北海道の「障害者差別禁止条例」に習い、多くの人たちが差別禁止条例制定に向け動き出し、宮崎県も「障害者差別禁止条例制定をめざす宮崎世話人会」が発足、昨年11月議会で、同世話人会が請願した「障害者権利条約早期批准を求める意見書提出を求める請願」が全会一致で可決されている。】


質問
 障害者権利条約早期批准と、宮崎県障害者差別禁止条例制定についての知事の見解を求めます。


答弁
 次に、障害者の権利に関する条約の早期批准と条例の制定についてであります。
 この条約は、障がい者に対するあらゆる差別を禁止し、社会参加を推進するため、教育、労働、文化等の分野で、各国が守るべき事項について、定めたものと理解しております。
 また、昨年12月、県議会におかれまして、条約の早期批准を求める意見書を国に提出されましたことは、大変意義あることと思います。
 こうした中、現在、国において、条約の批准に向け国内法制定の検討も進められておりますので、当面は、国の動向を注視してまいりたいと考えております。



だった。正に官僚答弁の見本のような内容でがっかりした。知事は任期を約一年半残して次期衆議院選挙への立候補問題が連日報道されている。転身の理由は、「宮崎から国を変える」としている。しかし、答弁では、「国の動向を注視してまいりたい」で、何か違和感を覚える答弁だった。




2009年6月8日(月)   臓器移植法の改正



 ここ1週間は次から次に切実な悩み相談への対応で体と頭がオーバーヒート状態である。切実な悩みを話されると必ずそこには「保護者の涙」がセットになる。聞いている側の私としては、私の両親が自分自身の交通事故の時同様に「流した涙」と同じであろうと想像してしまう。相談の内容は、今、国会で「臓器移植法の改正」が話題となっています。じつは、私の子供(7歳)は自発呼吸が出来ず医者から「脳死状態」と宣告されました。法律が出来たら臓器の提供をしなければいけないのでしょうか?と言う相談でした。私は、臓器移植とは臓器の機能が低下して移植でしか治らない人に移植し、健康を回復しようとする医療で健康な家族からの肺・肝臓・腎臓などの部位提供を「生体移植」、脳死の人からの臓器提供を「脳死臓器移植」、心臓が停止した人からの腎臓提供を「献腎移植」がありますが、前提として臓器提供する側の家族の同意が絶対条件であり心配することは無いと思います。と話しをしました。これら話しをされる過程で、「うちの子は、私が話しかけると反応があります、くすぐると笑ったような表情をしてくれます、私の機嫌が良いと安心した表情になってくれます」と次から次と号泣しながら訴えられていました。確かに、脳死の定義などを定めた臓器移植法改正案の今国会での採決がほぼ確実な情勢になっています。背景には、海外渡航移植に規制をかける「世界の風潮」があるといわれています。
 現在、国会にはA、B、Cと呼ばれる3案が提出されているようです。A案は本人の拒否がない限り年齢に関係なく、を可能にする。B案は提供の意思表示年齢を15歳から12歳に引き下げる。C案は脳死判定基準を厳格化する。とされています。平成9年施行の臓器移植法は施行後3年の見直しを定めているにもかかわらず、国会が見直し論議を「たなざらし」しにしてきたこともあり、与野党ともに「今回は廃案にはできない」という思いが強く、延長国会での結論が出されるものと言われています。
 約2時間の相談時間の間、頬からはずっと涙が流れていた。「私は奇蹟を信じて生きています」「だってそうでしょう、僅か1年半で今の状態ですから、完全に回復しなくても少しの回復はあると信じています」と話されていました。まだ30代の若いお母さんでした。私の勝手な想像ですが、「臓器移植」この若いお母さんの心は揺れているように感じた。奇蹟が、との思いと、全ての可能性が現実のものと確定したら、わが子の再生を信じて「臓器移植」を決断されるのではないかとも思った。最後に、どうして「脳死状態になったんですか?」と質問したところ、理由にビックリした。その理由はいえませんが、ご本人の了解が得られれば、今後、徹底的に原因追求を考えています。その夜、「精神的に不安定でしたが、少しは安定しました。こどもがそういってくれています」と電話があった。私は、安定どころか「原因追求」の仕事が待っていると思うと、また暫く眠れない夜が続くと不安になってきました。



2009年6月2日(火)    ご苦労様でした。



 永年ある障がい者団体の会長を勤められていた方が勇退された。そのご苦労さん会があり参加した。当時、私は両足がない自分が一番不幸で重度の障がい者であると思っていた。しかし、それがとんでもない間違いである事を教えてくれた一人でもあった。私は、行政視察をする時、その殆どを関係者も一緒に参加してもらっていた。歯科センター、発達支援センター、総合福祉保健センター、スクールバス、リサイクルセンター、教育アシスタント設置、教育施設のバリアフリー、無認可作業所への補助、放置自転車規制条例、リハビリセンター等々議会で質問する時、それぞれ関係団体の方々と一緒に視察をした。結果、全ての件で具体化が図られた。今、考えると私は公費、保護者等は全て自己負担。随分乱暴だったと思う。当然、「ご苦労さん会」も時間が経つとこれらのことに対する点が話題となり私への批判が集中した。4〜5時ごろ電話があって、「6時から話し合いをするから出て来い」と言われても、「障害児を抱えている家庭では簡単に外出できない、外山さんは無茶苦茶だった」との批判を受けた。中でも、特にしんどかったのは「私の子供は19歳で他界した。全てのサービスを受けることなく終わった。いわれるまま、家庭を犠牲にし、二人の子供に淋しい思いを強いてきて頑張ったのに」と号泣しながら訴えられた。私の挨拶の番となった。さすがに、涙がとめどなく流れた。「ごめんな」と言うしかなかった。今ある、宮崎市の全ての福祉サービスは、これら保護者の強い運動の成果である事を決して忘れないで欲しい。「本当にご苦労様でした」。
 子供を3人育てたが、運動会は親の義務としての参加であった。3人とも恐ろしく鈍足で、最後か後ろから2番目をニコニコ笑ってゴールしていた。これは、我が家と家内のDNA見れば仕方ないことではあるが。ところが、「ジージ、全校リレーで走るから見に来て」。と孫から電話があった。早速、5月31日、A小学校の運動会に行った。疑心暗鬼であったが、確かに一等であった。私は3時まで待つことができず見ていないが全校リレーも一等で足って来たそうである。「楽しい運動会」を味わうことができた。
 夕方、予想していたことが起きた。【ご褒美頂戴。ジージ】と孫が来るであろうと思っていた。見事に予想が的中した。「楽しい運動会」を味あうのにもお金が入る事を後ほど味わうことになった。何事も「実践から学ぶ」と教えられてきたが、今回もまた実践からの学習であった。しかし、感心させられたのは僅かな時間にここまで指導していただいた先生たちに感謝である。ご苦労様でした。



2009年5月12日(火)    心からご冥福をお祈り申し上げます。



 4月は葬儀への参加が多かった。自宅の周りだけでも3人が他界された。生前は大変お世話頂いた方々ばかりであった。家の生垣を刈って下さった方、庭の果物等よくいただいた方。昨日、何気なく新聞を見ていると死亡広告欄の名前に目が留まった。市議時代迷惑を掛けた内の一人であった。「大淀川以北人口は宮崎市の人口の約6割を占め以南は約4割であったが、直近ではほぼ半々となっている。に拘らず公的施設は以北が殆どである。図書館等公共施設は以南に建設すべきである」との質問に対して、故、長友市長は「以南で検討する」との答弁がなされた。総合福祉保健センター、市社協、文化センター等を有する施設が始めて以南に建設された。保健センター内に「リハビリ施設、障害者用プールを創るべきだ」との質問に対して、市長は顔を真っ赤にして「そのつもりはない」と答弁された。しかし、後ほど聞かされた話であるが「外山が言っていたものを創れ」と言ってくれたらしい。結果として見事に出来上がった。そして今では一番繁盛しているのがリハビリとプールらしい。その時の課長であった。設置した場合の設計、しない場合の設計。何回となく書き換えたと伺った。退職されると余り時間をおかずに病気を罹患し、約10年間、闘病生活に頑張っておられたようである。本当にいい方であった。心からご冥福をお祈り申し上げます。
 リハビリ施設は、障害者手帳交付状況(疾病別)を見ると、病気等による半身不随者が多いこと。理学療法室の登録者は200〜300人と最近窺った。プールは、民間スイミングスクールで泳いでいた障がい児に対し、気持ちが悪いからと言って他の子どもが泣きだしたことで、子どもの保護者がプール管理人に「お金を返すから上がってくれ」と言われたとの相談を受け、関係保護者と運動に取組んだものが実を結んだ。
 自分の娘が交通事故で下半身不随となり車椅子の生活となって、保護者として精神的にどん底の生活を強いられていたようである。しかし、娘さんの頑張りによりアビリンピックで世界一位となった。その時の喜びの顔は今でも脳裏にしっかりと残っている。その後、全国障害者スポーツ大会でも金メダルを獲得するなど娘さんは頑張られた。全国技能オリンピック予選、世界大会、国体予選、国体等々何時も娘さんと一緒であった。そのお父さんが78歳で他界された。これには泣けた。4月は、自分にとってある意味自分の生き様を証明してくれる方々が次々と他界された。これには一種の寂しさがこみ上げて来る物があった。時間の経過と共に概ね順番で失われていくものであることはそれなりに理解が出来るが、現実のものとなると実に悲しいものである。夫々の方々に心からご冥福をお祈り申し上げます。そして、真の心を持ってありがとうございました。



2009年5月6日(水)    即席ラーメン



 連休半ば、家内の故郷「日南市」へ孫と一緒に行く予定であったが、昨日、青井岳温泉でのなが風呂が原因で体調の機嫌を損ねたのであろう身体がだるいので一人自宅で過ごした。昼食時間になり豊吉のうどんを考えたが、イレヴンセブンへ行って即席ラーメンとおにぎり一個を買ってきた。考えてみると自分で買い物をして作って食べるのは約40年ぶりである。それに即席ラーメンが270円であった。これにはビックリした。悪戦苦闘してどうにかできた。結構美味しかった。
 即席ラーメンには若かった頃の深い思い出がある。労働組合で教宣部員であった頃、会社が終わると早速、組合事務所で組合の日刊紙「こぶし」のガリキリが日課となっていた。B4版両面、約1,000部印刷。印刷が終わると総評傘下の関係組合への発送、門前で配布する為の準備等があった。部員ははっきりと記憶はしていないが約10名であった。毎日午後6時から始めて終えるのは9時頃であった。夜食として15円出せば組合ラーメンを食べることが出来た。当時市販されているラーメンは100円程度だったと思うが、製造している会社の労働組合から不良品(屑ラーメン)を安く分けて貰いそれを組合から買って夜食としていた。今考えてみると組合用務で遅くなるのにどうして夜食代を自分で出さなくてはいけなかったのだろうと思う。それにしても、春闘等交渉時期は大変であった。徹夜交渉は常態化し、執行部からの入稿は当然何時になるか分からない。門前ビラ配布の時間は迫ってくる。教宣部員と執行部はよく怒鳴りあいの喧嘩をしていた。この時期になると先輩部員の奥さんから手作りのおにぎり、ゆで卵等の差し入れがよくあった。今考えると実に懐かしい。あの頃は何を夢見てあんなに頑張れたのだろうかと思う。
 贈答品問題で政治倫理審査会が開かれ、「贈らない、求めない、受け取らないの『三ない運動』を遵守する。」等が話題となった。ふと約40年前の事を思い出した。『三ない運動』と言えば、第二組合(私たちは御用組合といっていた)は、私たちが作る機関紙「こぶし」を「受け取らない、読まない、求めない」の『三ない運動』に取組んでいたからだ。しかし、生産現場(第二組合)の職員は「こぶし」を読んでくれていた。
 ラーメンを作りながら40年前の若かりし日の事を思い出していた。40年前のラーメンは、麺は屑ラーメンだったせいもあってバラバラ、後はスープのみであった。お湯を沸かしものの5分もあれば作れていた。ところが今のラーメンは、ネギ、焼豚も2枚付いていた。豪華になったものである。でも、美味しさは40年前のラーメンが何十倍も美味しかったような気がする。



2009年3月24日(火)    願いと予算について



 日頃、沢山の相談を受けます。その中で、予算の必要とされるもの等も多数あります。それらについては、保護者と一緒に担当部等へお願いしています。当初予算をはじめて見るとき、そのお願いが予算化されているか否かがとっても気になります。予算化されていれば「万歳」ですが、反面そうでなければがっかりです。平成21年度当初予算の中で、願いが通じたものがありました。


 昨年、宮崎市内中学校から高校へ入学した一人の聴覚障害者への要約筆記予算がなく、自費で保護者が負担されていたことに対し、何回も保護者等の方が公費負担を求めておられました。今回の当初予算で具体化されました。


  ○県立高等学校生活支援員配置事業(学校政策課)             10,194千円


 県立高等学校に在籍する身体に障がいのある生徒が、教育課程を円滑に履修できるように、生活支援員を配置する。


 また、医療的ケアが必要な肢体不自由児に対するショートステイは、日南と川南でしか対応されていませんでした。保護者の方からは、中央部(子ども療育センター)にも設置してほしいとの願いが出されていました。この件についても600万円の予算で夏頃には対応されるそうです。


  ○支援学校医療的ケア実施事業(支援教育室)               54,410千円


 支援学校において、常時医療的ケアを必要とする児童生徒が安心で安全な学校生活を送るとともに保護者の負担軽減を図るため、看護師を派遣する。


 支援学校の高等部設置の願いについても、4校の平成22年度からの計画的建設が明らかにされました。


  ○特別支援学校高等部設置事業(特別支援教育室)            126,800千円


 高等部未設置校である「みなみのかぜ支援学校、都城きりしま支援学校小林校、日向ひまわり支援学校、児湯るぴなす支援学校」に高等部を設置し、障がいのある子どもたちの自立と社会参加を推進する。


  ○延岡総合特別支援学校(仮称)設置事業(特別支援教育室)         45,200千円


 延岡地区の特別支援学校3校(延岡ととろ聴覚支援学校、延岡わかあゆ支援学校、延岡たいよう支援学校)を統合し、延岡西高跡地に複数の障がいに対応し、幼児期から卒業後まで一貫した支援のできる新たな総合特別支援学校を設置する。


  ○定時制・通信制社会と夢への架け橋事業(学校政策課)           6,734千円


 定時制・通信制の生徒が夢を抱いていきいきと学び自己実現を図れるように、生活体験発表大会や進路講演会等を実施するとともに、心のケアを行う生徒支援相談員(ハートサポーター)の配置を行う。


※具体化された一部について記載しました。しかし、一方で多くの点で課題解決がされていないものも沢山残されています。今後とも必死に解決に向け訴えて行きたいと思います。皆さんのご指導をよろしくお願いします。




2009年3月1日(日)    予算と議員



 議員は当初予算(案)を開く時が一番緊張します。日頃市民の方々から相談を受け、窮状聞き何とかしなければとの思いから質問を繰り返し行っています。そのことが具体的に予算化されているか否かによって相談者の生活を大きく変えることになります。今回についても聴覚障害者の要約筆記予算(案)が提案されています。また、子ども療育センターのショートステイ(医療的ケアの必要な障がい児)の環境整備予算(案)が提案されています。さらに支援学校4校の整備計画(案)等々が提案されています。
 息子の子ども(二人)は日頃殆どを嫁方のお母さんにお世話を頂いている。ところが体調を崩され、暫くの間朝9時頃から夕方7時まで我が家で面倒を見ることになった。最初一日目は何をしても可愛いと感じていたが、2日目から「可愛い」との感情はとんでいった。我が家に着くと早速手当たり次第に整理整頓された物を引っ張りだす。1時間もすると足の踏み場もない。ただ、静かになる時間が訪れる。夕方、4時ごろから約2時間程度NHK教育テレビで「お母さんと一緒」の時間になると途端テレビに集中する。NHK教育テレビ番組に感謝である。
 夕方になると、犬と孫の散歩である。犬は家内が、孫は私が担当している。まだ一歳になったばかりと言うこともあって、車椅子から落ちないように気を配りながらの散歩は結構大変である。散歩コースは八重川堤防であるが、県道と八重川堤防間の坂が結構急である。孫をひざに乗せやっとの思いで頑張っていると、一人の中学生程度の学生が走ってきて「大丈夫ですか?押しましょうか?」と優しい言葉を掛けてくれた。赤江東中学校の学生であった。
 今年の春も沢山の方々から沢山の花を頂いた。庭では、美しい花々が咲き乱れている。梅、桜(日南一号)はすでに散ってしまい葉桜となっている。すべての人に感謝である。



2009年1月28日(水)    妻への感謝



●交通事故によって足を失って約40年が経った。以来、兎に角立ち止まることなく走り続けてきた。自分の健康を省みることなんか、唯の一度もなかった。昨年、還暦を迎えたこともあって内心ホットしていた。これまでも大丈夫であったし、これからも健康であろうという過信があった。しかし、この考えが間違いである事を痛いほど味わうこととなってしまった。昨年より体調の異常を感じていたが、「多分、大丈夫」と言う過信が結果として入院(10日間)となってしまった。●入院して学んだことが2つあった。一つは、健康は決して過信があってならないこと。もう一つは、妻への感謝。であった。以前、雑感に「妻への手紙」をアップした。(故)沖原氏の心境がよく理解でき、同感である。今回、私も入院を経験し、入浴を10日間で2度経験した。病院の介助員が「外山さんの風呂です。準備してください。」との声があり、戸惑った。私も60歳となったが、40歳代の女性から裸を見られ、流してもらうほどの厚かましさはまだなかった。まだまだ恥じらいもある。あわてて「お風呂だ、すぐ来てくれ」と家内へ電話をした。家内に身体を流してもらっていると、家内が「私が病気の時もこうして流してくれる?」と声を掛けてきた。「勿論、モップで一生懸命流してあげる」と言ってしまった。●考えてみると、結婚して以来、家内と二人だけの時間を持ったことは記憶に無い。何時も運動を一緒に取組む過程での時間の共有であった。●結婚して、3人の子供が生まれた。勿論、家内の両親にとって、私のような両足のないものとの結婚を許して貰える筈はなかった。精一杯働くことによってはじめて生活が維持できた。出産、仕事など全て二人で乗り切ることが求められた。

労働組合員による「外山を励ます会」
(昭和47年)

子供の誕生(陽子、4ヶ月?) 三人揃ってフラワーショウへの散歩

●事故で足を失った私は、ケースワーカーと相談。兵庫県立総合リハビリテーション病院へ入院(昭和47年末)することとなった。外科的治療完治後、併設されていた職業訓練校で印刷の技術を習得した後、神戸市内へ就職し約1年後郷里宮崎市内で会社を起した。兎に角必死で働いた。子ども三人育てるだけのお金はどうにか稼ぐことが出来た。●兵庫県では千葉で開催される障害者技能大会参加のための県予選が開催されていたが、宮崎県では何時県予選が開催されているか県に聞いた所、「ない」とのことであった。結果として「貴方がそんなに言うのなら、どうぞ旅費は出しますから」とのことで、家内と長女3人で参加した。成績は敢闘賞であった。当時の商工労働部長は、記憶は定かではないが四元さんだったと思う。その後、会社に車椅子の方が入社してきた。仕事と子育て、更に障害者の技術指導等本当に大変な毎日が続いた。約10年間は殆ど毎日のように午前3時〜4時まで働いた。横には子どもが何時も寝ていた。

競技大会会場にて宮崎県参加者と一緒



全国障害者技能競技大会、写真植字部門へ参加


競技会会場(千葉県)

寝顔を見ていると一緒に添い寝さえしてやれない子ども達がなんとも不憫であった。●現在、本県では競技大会予選は毎年行われ、全国大会に多数の選手が参加されているようだ。兵庫県では昭和50年ごろに障害者職業訓練校が開校した。私はその第一期生だった。本県からも数人同校へ入校し現在各方面で頑張っていただいている。また、国際技能競技大会(アビリンピック)で金・銀メダルも(有)自立印刷の職員が受賞している。30数年前から、職業訓練校の必要性を訴えてきたが、一向に行政が響かない。しかし、最近、朝日新聞、宮崎日日新聞等の社説に職業訓練校の必要性に関する記事が掲載されていた。それにしてもなんと鈍感な行政である。


昭和52年6月27日 宮崎日日新聞


平成21年1月27日 宮崎日日新聞


兵庫県総合リハビリテーションセンターでは、障害者入院患者で多種多様なスポーツクラブが盛んで、私はバスケット・水泳等を練習していた。バスケット部員の中には、ミュンヘン、モントリオールパラリンピック大会等へ出場した部員もおり周りに刺激を与えていた。刺激を受け、千葉国体へ向けて本格的な練習を始めた。バスケットは県代表にはなったが、ブロック予選で敗退した結果個人競技で出場することになった。●元来スポーツが好きである。S54年には、『日本のふるさと宮崎国体』も開催予定されていることもあって、車椅子バスケットも盛んに行われていると思い行政へ問い合わせて吃驚した。「ない」との返事であった。国体まで3年しかないのにのんびりしているもんだと呆れた。以来、昼間は殆ど病院回りをして車椅子常用者(脊髄損傷)の方を探した。仕事はお袋に電話番をお願いし、帰宅してすぐ発注者を回って原稿を頂き、殆ど徹夜で仕事を仕上げ、次の日納品していた。大変な苦労もあったがクラブを結成することが出来た。また、監督もボランティアで就任していただいた。練習は厳しかったが「国体で一勝!」を目標に皆で頑張った。
一番困惑したのは、体育館を貸してくれる所が少なく(傷をつけるという偏見)本当に苦労した。キャスターに布を巻く事を条件に貸していただくこともあった。また、多少遠方でも自動車に寝袋を積んで何処まででも足を運んだ。福岡、大分、鹿児島、熊本等練習試合のため月1回程度は行っていた。●このように部員一丸で頑張った結果国体では3位と入賞を勝ち取ることが出来た。大変な苦労はあったが、あの感動を味わうことが出来たことで、全ていい思い出として忘れることができない。国体で、バスケットのキャプテンをしていた関係で、現天皇陛下から声を掛けていただいた。以来、今日まで5回程度声を掛けて頂くことになった。
●他、無認可24時間可保育所の園長等の仕事も担っていた。激務を乗り切ることが出来たのも妻の支えと協力がなければ到底出来るものではなかった。大分県太陽の家で練習試合を3試合した後、帰りを急いでいると睡魔に襲われたこともあり、一瞬もう駄目だと感じたこともあった。2〜3歳となった娘を運転席に乗せ、球磨川を走って試合に参加したこともあった。●昭和57年、私が30代前半の頃に突然市会議員への立候補要請が来た。家内は猛反対をした。勿論私もその意思はなかった。家内としては、今でも激務であり、更に仕事を抱えることは身を滅ぼすと言うのが反対の理由であった。党の責任者に「意思はありません」と何回も伝えたが、「いい返事を頂くまでは何回も来る。」の繰り返しであった。最終的には「分かりました」と返事をしてしまった。あの時、家内が、言った言葉はしっかりと記憶している。「ゆっくりしたい」だった。更なる激務の中に身をおくこととなった瞬間であった。


(次号に続く)






2009年1月4日(日)    父を思う



 1月6日が父の命日である。5年目を迎える。早いものである。突然、都はるみが歌っていた「涙の連絡船」を誰が買ってくれたかは定かではないが、レコードが擦り切れるまで何回も何回もプレーヤーで聞いていた姿を思い出した。父の姿を思い出してかは分からないが、私も無性に若かりし頃の歌が聞きたくなった。娘に頼んでコンポとCDを買ってきてくれるように頼んだ。娘は、嫌々ながら娘婿を連れて電気屋に買にいってくれた。なんと言う曲を買ってくればいいの。と、聞かれたので「40年前の映画音楽、岡林信康の山谷ブルース、チューリップのアップリケ」等々並べた。「なにそれ」と、問われた。2時間経った頃「何れの店にも置いてない」と、不機嫌丸出しの声で電話が入った。仕方なしに家内が持っていた三橋美智也、春日八郎のCDを聞いた。聞いていると若かりし頃の思い出が走馬灯のように流れた。改めて、父が一人で聞いていた姿が思い出された。約50年も前の過ぎ去ったひと時である。


 「孫」について昔の人はよく言ったものだ。「孫の帰省は二度喜ぶ」一度は来る喜び、もう一つの喜びは帰って行く喜び。だそうだ。全くその通りだと最近実感している。普段は、家内と二人だけの生活であり、静寂の中で過ごしている。4人もの孫が一度に家中を走り回ると「コラッ、煩い」の連発である。パソコンをしていると、「ジージ、何してるの、横から手が伸びてくる」折角、入力したものが全て台無しとなることもしばしばである。今、全ての『孫』達が夫々の生活の場に帰っていった。再び我が家に普段の静寂が戻った。「ジージ、また、夏休みに来るからね」と言ってくれた。「涙が出る」ほど嬉しかった。



2008年12月24日(水)    私は何故社民党か?



●外山は何故「社民党か?」とよく聞かれる。大半は、適当な言葉で応えている。しかし、改めて真面目に問われると、つい言葉を失うことがある。自分は何故社民党か?と自問自答し、考えてみると的確な言葉が出てこなかった。そこで、「社会民主党宣言」を読んだ。
我々の弱体化が「今を許していると感じた」●世界的な金融危機と景気後退を理由とした派遣・請負労働者、期間工の雇い止め・中途での契約解除・解雇が大量に発生している。この原因は、競争至上主義と労働法制の改悪、派遣法の規制緩和にある。また、構造改革によるセーフティーネットの崩壊も深刻さに拍車をかけてきた。雇用の調整弁とばかりに非正規労働者を「在庫整理」のように使い捨てる経営者の経営責任こそ糾弾されるべきだ。
年の瀬を前に住居すら失う派遣・請負労働者、期間工が続出するなど、事態への対応は急を要している。●この現状を打開するために、我々社民党が必要とされているのだと、改めて思った。09年度を迎えるに当たって「来年こそは」と固く誓った。頑張るぞ!
県民の皆さん、「社会民主党宣言」をご一読ください。お願いします。


           社会民主党宣言  





2008年11月13日(木)    障害者自立阻害法?



 宮崎障害者協会の作品展実行委員会に参加し、会議終了後、仲間と話していた。「生活が苦しい、年金だけでは生活が出来ないため新聞配達をしているが、歩行ができないため電動車椅子を借りて配達しているが、30部が精一杯である。10部はどうしても配布ができず販売店の方のお世話になっている。約1万5千円の収入となるが、電動車椅子のレンタル料が月5千円掛る」と話しされた。電動車椅子の給付は実に厳しい制約があるため対象とはならないようである。全国の障害当事者が猛反対の中、強行導入された障害者自立支援法で福祉サービス利用料の原則1割を自己負担させる制度施行された結果、この様な理不尽な出来事がいたるところで発生している。


自立支援法は「憲法違反」障がい者ら集団提訴へ 

 2006年4月施行の自立支援法は、福祉サービスの利用を原則で一割負担とした「障害者自立支援法」について、「法の下の平等」「生存権の保障」を定めた憲法に違反するとして、全国各地の障害者約30名が10月末、国や地方自治体に対して一斉に訴訟を起こすことが報じられていた。
 実際、福祉施設利用当事者及び保護者などからは「自己負担が重く、福祉サービスの利用を控えるようになった」「通所授産施設等で得る作業工賃より、施設利用料や食費がそれらを上回り、福祉施設サービス利用をあきらめざるを得ないケースも多い。更に、特に障がい程度が重い人は、複数のサービスが必要なる、その都度1割の負担が強いられる。その上、作業内容が限られるため収入も低く、厳しい状況となる。サービス利用料が高く、働く意味がない」などといった切実な声が全国の障がい当事者・保護者から相次いでいる。
 以前は所得に応じて負担する「応能負担」だったため、収入の少ない在宅利用者のほとんどが負担を強いられなかっただけに当初から反対の声が強かった。
 「車椅子等で歩くことにも金がかかり、行動に制限が強いられる障がい者と、障害がない人では平等ではない」と思う。まさに現行障害者自立支援法は『障害者自立阻害外法』である。
 自立支援法の根本問題である応益負担制度の廃止を実現するには、法律改正こそが日本政府も署名した国連の「障害者権利条約」の趣旨に沿うものである。



2008年11月2日(日)    高校野球練習試合



 義母の見舞いのため日南へ行った。有料老人ホームの近くに日南学園野球部の球場がある。少しの時間を利用して球場に行って見ると練習試合が行われていた。対戦相手はユニフォームに福岡とあったが、高校名はなかった。7回表途中から見始めたが、結局3対2で日南学園が勝った。観覧席には両チームの保護者が沢山応援されていた。折角の3連休である。福岡県から宮崎県まで子どもの練習試合応援のためとはいえ大変だろうと思った。
 私の子供も小学生低学年からあるチームに所属していた。ところが万年補欠で一度もレギュラー先発はなかった。それでも、可能な限り試合は見に行っていた。4年間、何時でも3塁か1塁のベースコーチであった。親として一度くらい雄姿が見たかった。しかし、叶わぬ夢と終わった。その息子も昨年結婚した。この際「孫たち」に果たせなかった「雄姿」を期待することにした。
 バックネットから3塁側寄りで見ていたが、全ての選手が大声で挨拶をしてくれた。来夏の甲子園は出場に向け既に始まっているのだと思った。日南学園野球部の選手の皆さん。低迷続く宮崎県経済へ活を入れるためにも是非頑張って頂きたい。



2008年10月16日(木)    おめでとうございます?



●海上自衛隊の護衛艦「さわぎり」に乗艦していた隊員が、艦内で自殺した事件をめぐり、「自殺はイジメが原因」として両親が国を訴えた裁判で、1審の長崎地裁佐世保支部による原告敗訴判決を破棄、逆転勝訴判決が下されたことに対して、多くの方々が「おめでとうございます」と言ってくださいます。これに対し「ありがとうございます。と、素直にいえません。変なのでしょうか?」と、聞かれた。●「周産期医療と療育ネットワーク」の講演会で、Nさんから【たとえ、親よりもその子の命が短くとも、周産期からつながるあたたかい療育が、いかに、その子と家族の人生を豊にするか】の話をうかがった。以前、30歳代で他界した最重度の障がい者の保護者に対して、ご近所の方々が「肩の荷が軽くなりましたね」と声を掛けて頂きます。「私は、返事に困ります」との話を聞いた事を思い出した。●この何れも、当事者と第三者の「心のすれ違い」のような気がする。「さわぎり」裁判勝訴の保護者が「めでたくはありません」と言ったところ、「国家権力自衛隊と闘って勝訴したのですからめでたいでしょう」と言われたそうです。「たとえ、親よりもその子の命が短くとも、その子と家族の人生を豊にするか」第三者からすれば、重度の子どもさんの介護で、日々大変な生活を見ての言葉であったろうと思う。●交通事故で両足を失って暫くたった頃、深夜、両親の会話が聞こえてきていた。「父ちゃん、良治があんな体になった。いっそのこと死んでくれたらよかったのに、ウン」。当時の親の素直な気持ちであったろうと思う。しかし、交通事故等でわが子を亡くされた保護者から「うちの子もあなたのようにどんな格好をしていても、生きていてほしかった」とよくいわれる。親と子どもの関係は、言葉では表現不可能なことが多いと感じる。●いずれにしても、この世に生を受けたものを「お母さんが、子どもに対し惜しみなく愛を注ぐことのできる環境の整備」が必要だと思う。



2008年10月10日(水)    街宣での出来事



●街宣? 一般の方は「なんのこっちゃ」と思いでしょう。党の政策等を訴えながら走ることです。10分ほど走っては約5分程度政策を訴えていく。串間地区で訴えていると一人の女性が聞いておられた。訴えが終わり移動しようとした時話しかけられた。「私の夫も両足がありません」から始まって、話が日々の生活の大変さへと移った。「ご主人も、足の痛みを訴えられますか?」「はい、顔を歪めて痛がっています」など共通する境遇の人と話しをすることは実に簡単である。しかも正確である。これが立場の違った人に話すときは相当の時間とエネルギーを掛けて説明したとしても相互理解は難しい。しかし、諦める事は不幸の継続を招くだけである。訴え続けるしかない。近い内の再開を約束して別れた。「ご主人をよろしく。」
●同様にマイクを持って話していると、「お前の話していることは難しくてようと分からん」とお叱りを受けた。「ところでお前は誰か?」「はい、宮崎の県会議員です」と簡単な自己紹介をすると、「うそいえ」。納得していただいたかは不明であるが、「だったら、この道路はトラックが通るたびに振動がして、家が揺れる何とかしてくれ」と、早速要望があった。次の日、関係課に繋いだが、素晴らしい県庁職員のお陰で、早速対応していただいた。私のことは信用してもらって頂いていなかった? らしい。また、お会いしたい一人である。
●午前中の街宣が終わり、昼食は南郷町の「道の駅」でとった。目の前に私の孫と同じ(1歳程度)赤ちゃんを連れた60歳程の夫婦と娘さんであろうご家族の方が食事されていた。私が赤ちゃんに向って「べろべろバ〜」を繰り返していると、突然泣き出した。お婆ちゃんは私を背にして座っておられるので、何故、泣き出したのかは分からない。何回か繰り返しているうちに気付かれた。お婆ちゃんは「私のほうを向いたら駄目」と顔を手で遮断された。しかし、赤ちゃんは恐いもの見たさで、私の「べろべろバ〜」を見ては、また泣き出す。暫くすると食事が運ばれてきた。おなかも空いていたので美味しかった。帰りに、「すみませんでした。」と声をかけると、「笑って、いいえ」との返事であった。
●南那珂方面でのたった一日の「街宣」であったが、色々な方との出会いがあった。串間市の両足のない人、自動車から身を乗り出して手を振っていただいた人、道路舗装を要望された人など気になる人が新たに追加された。「議員ってなんだろう」と最近考えることが多くなってきた。この道に歩を進めることに成って約30年間も経ってしまった。嬉しかった事は忘れてしまったが、「気になる人は」次々と蓄積されてしまう。ごく最近、一人の方が他界された。相談を受け、不十分さはあったが課題解決が図られた。以来、我子の為との思いからか、四季折々の野菜を頂いた。しかし、力尽きて他界された。通夜に行って亡骸を見た。安らかに眠っておられた。もし、議員をしていなければ知合うこともない。また、悲しい思いもしなくてすむ。「気になる人」をファイルしていけば「議員とは?何か」が見つかるかも。



2008年10月1日(水)    乖離(かいり)そむきはなれること



●約25年間議員として質問をしてきました。疑問を感じる中に「答弁内容と現状の乖離」があります。例えば、知事のマニフェストに「4年間で新規雇用創出数1万人」があります。19年度は新規雇用された人は1,640人報告されました。内訳は、企業誘致など新規立地企業による1,174人のほか、農林水産業で雇用創出の各事業により122人、商工団体の創業支援事業などで344人です。しかし、労働局資料によると、県内の建設業のみで雇用保険をやめた離職者数は昨年7,251人と増加傾向にあり、今年4〜7月で3,056人となっています。離職者が増える一方で新規雇用が進まない状況を宮崎労働局は「働く場所として、建設業が労働者を吸収しきれなくなっている」と分析しているようです。マニフェスト効果1,640人と建設業離職者7,251人と乖離が生じていると思います。


●障がい児・者に関する答弁で、「福祉・保健・医療・教育・労働の関係機関が連携し、個々の障がい児のニーズや、就学前、在学中、卒業後というライフステージに対応した一貫支援を行う為に新しい療育支援プログラムの開発・試行を行っている」とありました。一般質問でNICU(新生児集中治療管理室)に関し質問しました。保護者のアンケート結果は、(1)NICU所属のコーディネーターの指導は「なし」が100%、(2)看護士からの指導内容は、入浴方法、吸引方法、授乳方法等退院後家庭で必要な措置についての指導が主に行われるだけ。(3)保健所からの訪問は、約80%が「あり」と答えていますが、訪問回数は1回のみとなっています。
訪問があった場合も、身長、体重の測定であり、障がい等についての話があったケースは皆無。中には、体重計、聴診器など医療機器も持たず来る、必要とされる情報提供はされていない、福祉サービス等知識がない等々答弁と現場の乖離が明らかになっています。


●私も数々の相談を受けています。その原因は関係機関の連携がないことから生じるものばかりです。(1)聴覚障害者が高校に入学しても要約筆記者が付かない(小・中学校では付いていた)(2)医療行為が必要な障がい児が入学してくると保護者に付き添いを強要する、(3)支援学校で遺留行為が必要な生徒に対して保護者へ付き添いを強要する、医療行為があるからといってスクールバスの利用を断る、(4)医療行為を必要とするからといってショートステイを断る等々事例は山ほどあります。もう少し保護者・当事者が望む連携を考えて欲しいと思います。ただ、「連携が必要である」との共通認識では一致しています。お互いに切磋琢磨しながら「乖離」解消に向け努力していきたいものです。



2008年10月1日(水)    プライド



●9月議会一般質問で、知事がおおむね順調としている知事マニフェストの達成状況に対し、K議員が県民生活の厳しさを理由に「私なら非常に厳しい状況で低調と考える」と発言。見解を質したところ、知事は「そういう立場(知事)におなりになったらどうですか」と発言したが、その後、「不適切な発言だった。おわびして取り消させていただきたい」と撤回した。
コメント
 議事録は永久保存である。後世の人が議事録を見て、「取り消し」と言っているが「どの発言を、何処から何処まで取り消しているのだろうか?」が理解できる議事録にする必要があると思う。そのためには、議事録を起こし発言者と協議の上取り消し部分を確認する必要がある。しかし、その作業がなかった。残念である。


●私は、昨年6月議会で、不適正処理に関し「監査委員は、監査の為必要があると認めるときは、関係人の出頭を求め、帳簿、書類その他の記録の提出を求め、又は学識経験を有するもの等から意見を聞くことができる」とあると質問をした。答弁は、「出頭を求めることはできるが、出頭拒否、証拠書類提出拒否されても罰則規定がない」であった。また、06年6月の自治法改正により、識見監査委員の増員が条例改正により可能となった、増員の考えはとの質問に対して、「現段階は増員の考えはない」と代表監査委員は答弁した。今回、昨年に続いてエコクリーンプラザ問題が発覚した。早急な監査を求めたが、代表監査委員答弁は、「県が外部調査委員会を設置された。委員会は、経理、法律、技術の各分野の専門家で構成されており、調査の内容は質、量ともに高いレベルのものになると思う。従って、我々は、調査報告が出された段階で、その内容に監査委員の視点を加え、監査を実施する計画にしている」と答弁した。※コメント 外部調査委員会は任意の組織であり、且つ法的根拠等何もない。その組織の「調査報告を待って」との答弁には愕然とした。これでは、監査委員会は退化した盲腸のような存在である事を自ら認めたような答弁だと感じた。「地方分権時代に相応しい監査のあるべき形」を構築することが急務だと思う。それにしても、現監査委員会はプライドはあるのだろうか?不思議でならない。



2008年9月18日(木)    ど根性フェニックス?



 兵庫県だったか記憶は定かではないが、歩道のアスファルトを破って大根が芽を出し、育ったことで「ど根性大根」として全国的に話題となりました。ところが、私が毎日利用しているある恒久の交差点で「ど根性フェニックス」を見つけました。大根の方は「鳥が種を運んできた?」と記憶していますが、「ど根性フェニックス」はどうしてここにと不思議でなりません。しかも、この交差点は改良されて随分時を経ています。この交差点は、車の往来も多く、大きくなると車両通行の妨げになると、いずれ撤去されることが予想されます。個人的にはこのまま保存してほしいと思います。



2008年9月13日(土)    療育とは?



 「療育ネットワーク」に参加したとき、【「弾き語り」を聞いて、正直止めどなく流れてくる涙を拭くことも忘れて聞いていた。歌詞は記憶していないが、子どもさんが超未熟児で生まれたことによって、お母さんとしての「苦悩」から始まり、徐々に「世界一愛しい私の子」へと心の変化を唄ったものであった】と、活動日記に書いたが、それを読んだ重身児を持つ保護者の方から次のようなメールが届いた。
 【あの歌には、私も参りました(;_;)素晴らしい曲で、凄い歌唱力でしたね♪ 誰よりも、お子さんが大喜びでしょうね…どこの子も、母の歌声は大好きですもんね♪うちのRも、下手な私の歌をニコニコ顔で聞いてくれます >^_^<  正直、私は 障害は個性とは全く思えません。本来なら、R自身が自分で困ってること・言いたいことを自分の言葉で訴えられるのが一番です。が、それが出来ないのだから 、どれだけもどかしく腹立たしいだろうと感じます。 そんな体に生んでしまって…と今でも思います。だからこそ、生んだ私が、Rの代弁を一生懸命努めていこうと思います(^^) では、おやすみなさい♪】
●「周産期医療と療育」について、私には知識がない関係上あるべき姿を論じることはできないが、普段から、重身児のショートステイ、機能訓練、医療費の負担軽減、福祉機器の負担軽減、医療的ケア児童への教育アシスタント対応等々相談を受け、約30年間取り組んできた。療育ネットワークの講演会に参加して暫くすると、Nさんから【たとえ、親よりもその子の命が短くとも、周産期からつながるあたたかい療育が、いかに、その子と家族の人生を豊にするか】とする内容のメールが届いた。私は、少し療育が分かったような気がした。つまり、「療育」とは、子と家族の安心保障ではないかと思う。

●9月11日の宮崎日日新聞を見ていると、なんと「孫(ちよ)」の写真を見つけた。1歳の誕生日に息子が投稿したのであろう。こどもと家族の安心保障が「療育」だとすれば、すべての子どもが健やかに育まれる環境の整備が急務だと思う。



2008年8月13日(水)    孫の帰省


今年の夏の特徴は、晴天が続きしかも暑い。今までは本県に被害を与えるような豪雨や台風の来襲もなく平穏な生活が続いている。しかし、我が家は豆台風「孫」が2個は定住し、2個が時々襲来する。普段の生活は、時々愛犬ブッチィが道行く人に吠えるぐらいで実に静かであるが、「孫台風」の襲来によって事態が一変した。2階は自然の雷に加えて人口雷が一日中「ゴロゴロ・ドタドタ・バタバタ」と鳴り響き、頭が変になる。孫の存在は実に不思議である。言葉では表現し難いが「来るまでの日を数え、帰る日を数える」といえる。今夏は、7日間の宮崎での生活であった。昨年の夏は2週間程度夏を楽しんで東京に帰っていった。小学校3年生にもなると学校行事、プール、コーラスと孫にも自分の世界があるらしい。その点、宮崎での滞在時間が短くなってきた。成長の証しであろう。その内、完全に自分の世界が時を支配する時がくるのであろう。そんな日が来る事を夢見ている。一方では淋しさが同居し、心中は実に複雑である。「ジージ、明日かえる。ジージは寂しい?」と下の孫(5歳)が声をかけてきた。私は、「あそうか、明日帰るのか、静かになるから嬉しい」と、言ってしまった。孫は、「また、来るね」と言ってくれた。私たち夫婦にとって娘が誕生してくれたことは、苦難の連続の日々の中にあって、明日への希望であった。早いもので、今ではその娘も2児の母である。孫達の将来の姿が漠然とした形で想像できる時までは生かされて頂きたいものである。多少無理なこととは分かっているが。今頃、娘も普段の生活に戻っていることであろう。「頑張れ、娘よ、孫達よ」意地悪ジージより。



2008年8月13日(水)    「還暦のお祝い」感激


 宮崎市民となって約35年。右も左も分からず、仕事のみに集中していた生活から、障害者スポーツ、障害者技能オリンピック、障害者福祉等々兵庫県との違いに内心驚きを感じながら日々の生活を送っていた。57年に党の要請を受け、宮崎市の市会議員へ立候補し当選してしまった。当時(今でもそうであるが)組織外の議員は社会党にはいなかった関係もあり、議員って何をするの?と言う戸惑いの中にあった。しかし、日頃の活動等によって様々な方と知合うことができた。交流の中から指摘された事を調査し、質問として起こし、具体化が図れるまで繰り返し質問をしてきた。あれから約30年間同様の取組を続けている。その仲間の方々が集まって「還暦のお祝い」を催して頂いた。ただ一言、「感謝」であった。沢山の方から温かいお言葉を頂いた。唯ひたすら歩いてきた「わが道」が決して間違ってはいなかったことを確認できたことは嬉しかった。「まだ、まだこれからですよ」との言葉に自分の「これからの選択」はこの方々に委ねる事とした。本当にありがとうございました。



2008年8月13日(水)    訓練校時代の友


 兵庫県立障害者職業訓練校第一期生の中に中島さんと言う方がいた。今でも呑んで気分が良い時に電話がある。きまって「どなんしとん」で会話が始まる。彼とは訓練校で一年間寝食をともにした。訓練校では、将来の生活を見出す為の大切な一年間と言うこともあって、夫々必死で技術習得に頑張っていた。彼は勉強についてはさほど頑張っているとは言いがたかったが、技術の「ツボ」つまり、取得すべきことはしっかり体得していたようである。最初の頃は、朝食も自分では取りにも行かず、同僚Nさんから持ってきてもらっていた。記憶は定かでないが、夏が過ぎた頃から三人一緒に食堂で食事するようになった。理由は卒業が近くなった頃分かった。調理員さんといい仲になって卒業と同時に結婚をしてしまった。結婚式にはNさんと一緒に参加した。彼の出身地は兵庫県の中央部に位置し、本県で言うと美郷町のようなところである。結婚後、彼は印刷会社を起業し、奥さんが営業を担当していると聞いていた。●「外山、俺(奥さん)も協力した、感謝せんかい」と電話があった。最初は何のことか分からず、「ほうか、ほうか」と言って聞き流していたが、後日、メールが来て写真(宮崎産完熟金柑)が添付されてきた。始めて「感謝せんかい」の意味が理解できた。改めて、マスコミの「力」を知ることとなった。彼の障害は、確か、頚椎損傷だったと思う。手・足の機能が十分でなく重度障害者である。しかし、「生きて行くために今、何をしなければならないか」という「生きて行くためのツボ」はしっかりと身につけていた。何時も感心させられていた。その一つが訓練校で技術の修得と同時に、彼女も取得してしまう離れ業を簡単に成し遂げてしまう。彼に、「奥さんと一緒に宮崎に来い」と何回となく誘っている。その都度「行くわ」とは返事しているが、一回も来ていない。多分、頚椎損傷という重度障害者の身が躊躇う原因となっていることは承知している。宮崎だって決して十分ではないが、物理的バリアーフリーも整備されている、と説明はしている。実現はしていない。●卒業して約35年経過した。第一期の卒業生は、技術習得後、兵庫県内各地域で技術を磨き頑張っているようだ。北京オリンピックが開催されているが、後輩たちには、モントリオール、ミュンヘン両パラリンピックへ出場したものも数人いたと聞いている。本県の場合は、総合リハビリテーション・職業訓練校等社会復帰の為の基礎的施設が全くない。残念でならない。



2008年7月26日(土)    明日があるさ


 議員となって25年。議会が終わると議会便りの配布が重労働である。しかし、これだけは議員の責務であると始めて早いもので25年も経ってしまった。今夏のように暑い日が続くとほんまにしんどい。でも、直接市民と様々な点について語り合うことが出来て楽しい。また、自分たち(議員)の考えが世間と比較して「大幅にずれている」と気づかされる時もある。勿論誤解もある。何より、「市民の声」を聞くことが明日への活力となる。▲いつの間にか、60歳(8月7日)となる。思いがけない方から「還暦のお祝い」が届いた。正直言って還暦って何のことか知らなかった。調べてみると、「60年で再び生まれた年の干支(えと)にかえるところから数え年61歳のこと」との意味だった。つまり、60年間色々あったが、生きていることに感謝することかな、と勝手に思っている。でも、「定年は早い、もっと頑張れ」と書いてある。ま、賞味期限がきれるまで頑張るかと心新たにした。▲土用(立秋の前18日間)の丑の日に沢山の鰻を頂いた。【土用の丑の日(どようのうしのひ)は、土用の間で日の十二支が丑である日のこと。夏の土用の丑の日は、暑い時期を乗り切る栄養をつける為に、鰻を食べる習慣。】本当にありがたいものである。ただ、私は、川魚は苦手である。母が川魚を全く受け付けなくて(理由は、海岸端で生活していた関係で、独特の臭いが苦手)取って来るとよく怒られた。結果として、今でも鰻等川魚を食することが出来ない。頂いた時は、「高価なものを何時もありがとうございます」と言ってしまった。どうして「すみません、鰻は苦手です」と言えないのか、「暑い時期を乗り切るため栄養をつけて頑張って」との思いから、自らが、ガンを罹患しておられる身体に鞭打って持ってきて頂いた物を、お断りが今年も出来なかった。勿論、「相談事への対応は議員の努めですから」と毎回、強くお断りしている。お帰りになる後姿を見ながら、保護者の「子への愛情の深さ」を実感し悲しくなった。▲秋になると庭に植えてある柿木に沢山の実がなる。その柿を愛犬チャッピーと仲良く頂いていた。あの日から時が流れ、お隣のご主人さんも亡くなられ、我が家の愛犬も同様に他界してしまった。つい最近、お隣の奥さんから、家内が手作りの座布団を頂いたらしい。「奥さん、私が死んでも忘れないでね」と話しておられた、と家内から聞いた。「大丈夫、決して忘れません、まだまだ、長生きしてください。」今後とも、お付き合いをよろしくお願いいたします。



2008年7月22日(火)    明日があるさ


社民党で県北の医療調査の一環として宮崎県立延岡病院を訪問した。その日は夏の高校野球宮崎県大会の準決勝の日であった。
 私は出身が日南市であり、日南学園に勝って欲しかった。幸い5対1で日南学園が勝っていた。私が「これで日南学園の勝利が間違いないな」と言うと、当地延岡選出の大田議員が「日南に負けても決勝で勝てばいいんじゃろ」。この一言で全員唖然である。
 21日の決勝戦は宮崎商業高校と日南学園で闘われた。宮崎商業高校が2対1で勝利し39年ぶり4回目の甲子園出場が決まった。決勝戦は、実に素晴らしい白熱した手に汗握る好ゲームであった。
 縁あって日南学園野球部の練習は時々見ている。敗戦が決まった瞬間、グラウンドに泣き崩れて身動きしない選手を見て感動を覚えた。本当に感動をありがとう。「明日があるさ」と言葉をかけてやりたい。
 よく言ったものだが、勝って学ぶことより、負けて学ぶことの方が今後の人生では多いと思う。また、宮崎商業高校の選手の皆さん、県高校野球を構成する選手を代表して精一杯に闘って欲しいものである。
 延岡学園高校は、準決勝で惜しくも敗退して、決勝戦出場は叶わなかったが、来春の全国高校野球出場目指して練習に励んで欲しいものである。本県の中で、何かと暗い話が多い延岡に「活」を入れるためにも!



2008年7月13日(日)    訃報の連続


 30年も前の話である。車椅子バスケットチーム結成当時、部員の奥さんにマネージャーをお願いしていた。当時は、体育館に傷をつける(事実誤認)との理由から貸してくれる所が少なく、条件付使用許可を頂き、県内各地を東奔西走しながら練習を続けていた。また、土・日2日間の練習の時、延岡の部員は車のトランクに布団を積んで体育館で宿泊して頑張っていた。この様な悪条件を裏方で必死に支えて頂いた方が当時のマネージャーであった。その方が亡くなられたとの連絡が当時の「戦友」からあった。4年ほど前、委員会視察で延岡を訪問した時、確か精神障がい者の作業所の施設長さんがマネージャーさんであったので吃驚した事がある。また、一年に一回の障がい者スポーツ大会でもお会いしていた。とっても元気であった。その都度「お互い頑張っていこうな」と声を掛け合っていた。その人が「亡くなられた」との電話であった。早速、昔の監督からも電話があった。日曜日「にちりん」特急で延岡に出かけた。斎場に着くなり、妻を亡くした昔の部員が「良治、ありがとう来てくれて」と声を絞り出した。確か、70歳に届くまでになっているだろうと思う。この方は、脊髄損傷で車椅子の生活、その上に透析患者でもある。神は如何なる試練を与えれば満足するのだろうと思わず恨みたくもなる。すべてが終わり昔の部員から延岡駅まで送ってもらった。とっても疲れていたので、隣の小学生の子に「佐土原についたら教えてね」と声をかけたら、高校生程度のお姉ちゃんが「解かりました」と言ってくれた。お陰で起されるまでぐっすり寝ることが出来た。斎場で頂いた沢山の花を抱えて車内を車椅子で歩いていると、50歳くらいの紳士が「大丈夫ですか、持ちましょうか、花が傷むでしょう、降りる時は大丈夫ですか」と声を掛けて頂いた。「はい、大丈夫です」と、また、言ってしまった。どうして、はい、「お願いします」と言わないのだ。自己嫌悪に陥ってしまった。「人の命の儚さ、人の温かさ、自分の愚かさ」等々考えさせられた一日であった。明日は、いい日でありますように! 合掌。



2008年7月5日(土)    


豆台風


●一週間に2回程度の割合で長男が来る。2ヶ月前から、もう一人の孫(女の子)も来るようになった。多分1歳(名前はちよ)程度だと思うが、人見知りが強く、私を見るだけで泣き叫んで止む事がない。最近、家内にはある程度懐いている様であるが、私には全くその気配がない。(写真は恐いもの見たさで見ているが、まさに噴火10秒前である)。



故郷への郷愁


●3年ほど前、ご主人が脳梗塞の後遺症で半身不随となり、相談が寄せられたことで、ご自宅を訪問したことがあった。以来時々訪問していたが、2年前に他界された。暫くたって訪問したとき、人の住んでいる気配がなく心配していたが、娘さん(県外)の住む地へ引越しをしたとの葉書が届いた。以来、年賀状、暑中見舞いをいただいいる。今回は次のような俳句がしたためてあった。


   ふるさとの 廃屋の庭を想いおり


      娘(こ)と住む街は  みちのく仙台




職人根性


●ご主人は散髪屋さんで街の人気者である。奥さんが私の中学時代の同級生という事で行き来をすることになった。ところが、3〜4年前から進行性の病気を罹患され、今では長時間立っていることも出来ないようである。奥さんから「医大病院から3級の診断書を書いて頂いたが、手帳交付は1ヶ月ほどかかると言われた、待てない」と相談を受けた。早速行ってみると、開業中を示す回転灯は止まっている。休業と思いながらも入って見るとお客さんが3人、なんと仕事中であった。私が、「留守と思った、営業しているなら、回転灯まわしてよ」と言うと、「予約しかしない、回すと断るのが申し訳ない」との返事であった。病気が進行し、5分もすると椅子で休憩、これを繰り返しながら散髪を続けていた。その姿を見て「人間」を感じた。仕事をしている目は正に職人の目であった。一人目が終わると、暫し雑談が続いた。「早く仕事せんとお客さんに迷惑かけるが」と言うと、お客さんが「いいですよ、体調に合せて頂いて」と温かい言葉であった。「お前がよく足が痛いと言っていたが、今、解かった」。確かに、仕事中、何回も櫛が床に落ちるのを見た。脊椎まで進行し、足と手の握力が低下しているのだろうと思った。最近、不幸な話が多い。その都度、人間は何故生きなければならないのか。を問うこととなる。帰りの車中で考えていた。結論は出なかったが、「兎に角、生き続けてくれ!家族のために!」であった。



2008年6月30日(月)    少しの風が吹いた!


 「父の日とは?」アメリカでは、『父親を尊敬し、称え祝う日』とし、国民の祝日となっているようです。わたし自身の「尊敬し、称え祝う」相手は既にこの世にはいない。では、生前に「尊敬し、称え祝う」日に何かしたか? と記憶をたどっても定かではない。多分、気持ちはあったが、習慣がなかったし、プレゼントしても素直に喜んでくれる父ではなかった。と、勝手な理屈を並べて正当化している。●14日、宮崎にいる息子二人が来た。次男夫婦が「父ちゃん、これ」と言ってプレゼントしてくれた。「風が吹いた」と内心嬉しかった。長男が「父ちゃん、何がいい?」と聞いてきた。私は「何もいらん」と返した。●15日、激しい雨が降る中、家内と二人で高岡町に於いて開催されたある組織の総会に出席した後、日南市にいる家内の父に会いに行った。酒谷の道の駅で250円の花を買い求め、父の日のプレゼントとした。3時間程度すごした後、我が家に帰宅してみると、机の上に長男家族4名のサインが連名で書かれたプレゼントが置いてあった。素直に嬉しかった。●長男が「父ちゃん、何がいい?」とせっかく聞いてくれたのだから、10数年前に購入し、今でも使っている髭剃りが普段から欲しいと考えていたが、どうして「お、そうか、髭剃りが欲しい」と、素直に言えないのだろうか? 言えば、きっと長男も嬉しかったはずである。机の上に置いてある、長男家族の名前に頭を下げた。多分、手渡ししたかったのでは? 少し悲しい思いをした父の日でもあった。●勿論、「物をプレゼントすること」がすべてでないこと当然である。「尊敬し、称え祝う」ことが「父の日」本旨だと思う。本来の趣旨は、亡き父に対して感じている。世界の誰よりも尊敬している。貧乏の中で6人の子供を育て上げた。当然、過程では少しの余裕もなかった。まさに我慢の中で生涯を終えた父であった。。子ども達に少しの余裕が生まれたとき「尊敬し、称え祝う」気持ちを形として表現することが何故できなかったのか、今、後悔している。





2008年6月30日(月)    ふるさと納税



 議会一般質問で「ふるさと納税」について、4月から受け付けを始めた「ふるさと納税」による本県への寄付総額が同日現在で10件、48万5000円であることが明らかにされました。
 更に、知事は「自治体にとって今後、財政的に重要なツール(手段)にしなければいけない。竜頭蛇尾(頭部は竜で、尾は蛇である意初めは勢いがよいが、終わりは振るわないこと。)にならないように機会を見てPRに努めたい」と、答弁されました。


 「ふるさと納税」制度は、定義として個人の所得税の一定割合を個人が育ったふるさとに納税するという新税制度です。 「ふるさと」の定義として、個人が小中学校の義務教育期間、
過ごした都道府県とされ、(個人の確定申告書にふるさと欄を設け、個人による書き込み式とし、個人の申告を信用するものとなっています。)
 新税制の考え方として、所得税を納めるようになった個人を育てたのは、個々のふるさとであり、ふるさとなくして個人の今の存在は無く、個人に対する人材育成のコスト(教育費等)がかかっているのだから、人間形成等大切な時期を過ごしたふるさとに、恩返しの意味で所得税の一定割合を納税することは、理にかなったことであるとされています。
 感謝を形「寄附」で表現して頂くよう取り組む。また、「寄附」して頂いた方に「お土産・お礼状」を送る等全国的に様々な動きがあるようです。私は何かしっくりしません。「ふるさと」と言うとすぐ思い出されるのが室生犀星の「ふるさと」の詩です。


ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて 異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや


「ふるさとを思う」気持ちは、集団就職で関西方面に居住していたとき、今でも切なくなるほど胸に刻まれています。御堂筋を走る帰省バス(宮崎交通バス)を見に行ったこともありました。夏の高校野球大会の時は、宮崎代表の高校が試合をする時は会社を休んで見に行っていました。こうした精神的な思いを「寄附で表現」形で示すことには抵抗感があります。地域ナショナリズムを煽る様な制度・政策は一つ間違うと国家主義への道を開くことにもなります。(考えすぎかもしれません)。政府は、「三位一体の改革」の一環として、税財源の移譲をしましたが、結果として3年間で約348億円(宮崎県)の交付税を削減しています。「ふるさと納税」との新税制が財源の調整機能に類するものかは解かりませんが、本来の調整機能である交付税の完全実施を先行すべきだと思います。また、「ふるさと納税」については、都道府県間に於いて過剰な宣伝合戦、自治体間で寄附総額を比較し、「心の問題」をお金で計る様な報道等も好ましいことではないと思います。





2008年6月27日(金)    車椅子バスケット部員の死



 障害者差別禁止に関する話し合いに参加していると、携帯がなった。「Wが死んだ」との連絡であった。まだ30代の部員ということもあり驚いた。部員の死は約35年間に二人目である。一人は延岡の部員であった。記憶は定かではないが、自死を選択したと聞いていた。今回は何故かとの理由は定かではない。我々部員にも決して本心を明かしてくれなかった。●W君が20歳前後に部員として参加してくれた頃の印象は、身体は小さいが、敏捷性にすぐれ宮崎車椅子バスケットボールを将来リードしてくれるものと部員から期待されていた。残念で仕方がない。脊髄損傷で下半身不随となると様々な不自由さが後遺症として発生する。勿論歩行ができない。生理現象の処理に極めて困難性が生じる。幻覚症状によって身体に激痛が生じる。社会的バリアー等によって行動が制限され、水分を抑制することによって腎臓障害を罹患し易くなると等々の日常生活が強いられることになる。●これら苦痛から開放されることは素晴らしいことではあるが、それが「死」との引き換えであってはいけないと考える。私自身のことで恐縮ではあるが、正直「激痛から開放されたい」と考えることはあるが、子供の誕生、孫の誕生、庭に咲いた花々等「感動」を味わう事ができたのも生きていればのことである。60歳を迎える年となって過去を振り返ってみると、確かに楽しいことと、苦しいこと・悲しいことを比較して見ると圧倒的に楽しいことは少ない時間であったかもしれない。でも、必死で耐え活路を見出す努力をすれば幾分か負担軽減は図れると思う。人間の一生なんて所詮「苦難の連続」だと思う。少しの喜びを求めて歩かなければならない宿命を背負っている動物ではなかろうか?●W君、短い一生ではあったが、あなたは確かに生きていた、そして、我々バスケット部員に強い印象を残してくれた。ご冥福をお祈りします。そして、ありがとう。



2008年6月11日(水)    小さな感動



 病院で診察を待っていると、生後3〜4ヶ月の赤ちゃんを抱っこした20代前半の若いお母さんが入ってこられた。受付の前にしゃがみこんで背中のリュックを器用に外してなにやら探し始められた。多分、診察券、保険者証、財布などであろうと思った。しかし、片手には赤ちゃんを抱えているため、中々片手では探すことができないようである。大きなリュックには見た目にも、随分沢山のものが詰め込んであることであろうことは膨らんでいるリュックを見れば想像できた。私はその姿を見ながら「預かりましょうか?」と声をかけようかと思いながら見ていた。しかし、私のような車椅子の者が声をかけると相手方に迷惑をかけるといけないと気をもんでいた。すると、私の隣に座っておられた30代の女性の方が、私の思いと同じであったのだろう「どうぞ」と言って手を出された。若いお母さんは「ありがとうございます」と言って赤ちゃんを女性の方に預けられた。急いでリュックの中から予想した物を探し出し、受付に提出されていた。終わると、「ありがとうございました」と言って赤ちゃんを再び抱っこされた。時間にすれば一瞬の出来事ではあったが、なんとも心温まる出来事であった。●最近、家内が昔の話をしてくれる。「下の息子を背中に負ぶって、前に長男、後ろに長女」を自転車に乗せて、病院、買い物、会社への通勤、保育所への通園等々走り回っていた。今、考えると良く一人で乗り切ってきた。と、嫌味とも取れる言い方で昔話をしてくれる。●「少子社会」からの脱皮つまり特殊合計出生率向上策として、延長保育、放課後対策、保育料の負担軽減、医療負担軽減、児童扶養手当の充実、育児休暇取得等々議論されている。何れも、確かに効果的施策の一つであろうと思う。大袈裟かも知れないが、「社会が子育てを支える」と言う視点も大切ではなかろうかと感じたワンシーンであった。



2008年5月30日(金)    ある親の叫び 「怒りと懇願ある親の叫び」



【お疲れ様です!雨の中、県北への視察ご苦労様でした(^^)
 今日 強く思うことがあり、事務所へ お電話しました。それで視察のことを、お聞きました(^^;)
 さて本題ですが、昨日27日、龍也がこども療育センターで、リハビリ中に顔面蒼白になり、外来診察中に嘔吐しました(>_<)
 吐くまでの酸素濃度の計測など・吐いてからの血圧測定または処置・帰宅後の対応 などのアドバイス……
 一連の適切な対応のお陰で、吐いて顔色の悪い子を医大まで動かすことなく、帰宅できました。外山さんこの流れの大事さ、わかっていただけますよね…
 昨日は、たまたま非常勤で、小児科医がいらしたから出来た話です。本当に助かりました。本当に本当に助かりました。親の私よりも、障害児の 龍也がそう言ってます… 彼の心からの声だと思います。
 原口さんにも電話しました。ホントに早く何とかしていただきたい。福祉課・教員委員会ともども十分理解し、実際動いているのも知ってます。が、もっと拍車をかけていただきたい。宮崎に1つしかない県立のこども療育センター、整形外科だけでは、もう済まされないんです。昔と 今とでは話が違うんです。小児科医が、早急に早急に常勤体制になるよう、宜しくお願い致します。お力、お貸し下さい。
 狼じゃないですが、吠えたい気持ちです《 `ο´ 》
 では今からむし暑くなってきますので、お体 十分にお気を付け下さいませ(^O^)】




●県北視察を終え帰宅すると、上記のメールが来ていた。あ、「こども療育センター」の小児科医の問題に関する件だなと思った。常勤小児科医不在となって約2ヶ月が過ぎた。関係する保護者等から県に対して早急な常勤化を求める相談を幾度となく受けてきた。その都度関係者にその旨を伝えてきた。しかし、県の必死のご努力にも拘わらずいまだ解決される見通しは立っていないと伺っている。私がいまだ理解ができないことがある。退職された小児科医は保護者間では素晴らしい方であった、こどもの療育について最高の理解者であった等々と話を窺っている。その方が、何故、退職を余儀なくされたのか? 今もって解からない。以前にも同様のことがあった。富養園の児童思春期の専門医師が退職をされた。理由を漠然とは伺ったことはあるがはっきりしたものではない。県内に於いて、公立病院から大学医局人事? によって医師が次々にいなくなってきている。県北視察で延岡を視察した最、旭化成延岡支社長が「県立延岡病院に対する不安を開口一番訴えておられた」ところが、長野県佐久総合病院を視察した時、院長説明の中で、研修医を20名募集したところ60名の応募があった。宮崎県出身者が9人いる、とのことである。では何故佐久総合病院では医師に高い人気があるのか。この点を分析する必要があると思う。穴が開いたからほころびを修理すると言ったような現象対応策では問題は解決できないような気がしてならない。医師は何を望んでいるのか、「何処よりも高い給料を出してくれる病院であろうか」、あるいは、「何処よりも長期休暇を沢山保障してくれる病院だろうか」私は決してそうは思わない。医師は、一人ひとり高い志があって、厳しい競争の中で頑張ってきたものと思う。「高い志」つまり、人間としての「感性・哲学・使命感・夢」実現のために乗り越えてきたものと思う。行政の一方的都合の犠牲者になりたくない、と結果として去っていかれたのではないかと思う。ここに退職された小児科医師が記したものがある。


【日常診療は、個々のこどもと家族とは、楽しさと希望に満ちた時間となるよう、そして、実際に小児科医師としての私はこどもたちとそのご家族と共に在ることで、とても幸せです。小学生ともなると、「どうして、自分はここに通っているの?」と聞く子供たちがいます。「得意見つけ。夢見つけに通っているよ。」と説明しています。発達外来とは、苦手さを見つけて憂える診療ではなく、興味・関心・得意を見つけて、医療・療育の中心にいるこどもが、それぞれの人生の主人公として、豊かな人生を歩むためにあるのだと思っています。】心豊かなことばだと思います。


● 県立こども療育センターの理念を紹介します。


「一人ひとりのこどもとその家族の幸せを願い、信頼される療育に努めます」


 およそ、理念と乖離状況にある現状を早急に解消するため、対応策を講じて頂きたいと切に願うものであります。「狼 じゃないですが、吠えたい気持ちです」とした、メールを見て「すみません」としか返事がかけない、私自身の無力感と存在意義を痛感しています。



2008年5月11日(日)     「母の日」 今年も盛大



 今年も「母の日」がやってきた。障害者スポーツ大会へ参加し、帰宅して暫くすると玄関に「花」が置いてあった。東京の娘からも花が送られてきた。夕方、長男が子供を連れて花を持ってきた。夜は、「母の日」で賑った。大変結構なことである。しかし、またひとつ心配が増えた。今年の「父の日」は昨年同様に無風なのではないか、せめて「微風」程度の風が吹いてくれないだろうか? 多分、過ぎ去った日に「父の日」を思い出すことになるであろう。


 「母の日」の起源を調べてみると、「教え子を戦場に送るな」と戦後一貫して主張している、日教組の運動と類似している。「花」を見て、美しいと思える心のゆとりこそが、平和な社会の象徴ではないかと思う。プランターの「花」をなぎ倒す、公園のチューリップを引き抜く等ニュースで報じられているが、病んでいる社会の証しではないだろうか、少し心配である。



※母の日は、日頃の母の苦労を労り、母への感謝を表す日。日本・アメリカは5月の第2日曜日に祝っていますが、その起源は世界中で様々で、日付も異なっているようです。アメリカでは南北戦争後の1870年、女性参政権運動家ジュリア・ウォード・ハウさんが、夫や子どもを戦場に送るのを今後絶対に拒否しようと立ち上がり「母の日宣言」をしましたが、残念ながら普及することはなかったようです。ハウの「母の日」は、南北戦争中に「母の仕事の日」と称して、敵味方問わず負傷兵の衛生状態を改善するために地域の女性を結束させたアン・ジャービスの活動にヒントを得たものと言われています。ジャービスの死後2年経った1907年5月12日、その娘のアンナは、亡き母親を偲び、母が日曜学校の教師をしていた教会で記念会をもち、白いカーネーションを贈り、これが日本やアメリカでの母の日の起源とされているそうです。



2008年5月9日(金)    兄へ お勤めご苦労様でした。



 私は6人兄弟である。上二人が姉で3番目から4人続けて男である。長男は市役所職員を辞めて市会議員に立候補し、二期勤めたが三期目の挑戦は体調が思わしくなく立候補を断念し、自宅での生活を楽しんでいるようであるが、ここ2年ほど会っていない。二番目の兄は、今年3月警察を無事に定年退職した。私が宮崎市会議員時代は警察行政に関しては委員会審議対象事務となっていなかったので仕事の内容についてさほど関心がなかった。しかし、県議となって兄の仕事が少し理解できた。議会質問でも取上げたことがある。勿論、兄とは当然のことであるが、仕事に関して話をすることは全くなかった。警察といえば、個人的にはあまりいい印象は持っていなかった。私が健在時代(足がついていた頃)大阪御堂筋等でフランスデモをよくやっていたが、警察(機動隊)とぶつかりしこたま足蹴りされていた記憶があるからである。2月議会では、変死体対策について質問をした。平成19年1,440体発生し、ここ数年増加傾向が続いている。検視官不足、警察官の五感捜査等何れも大変な仕事であることが少し理解できた。退職後聞いた話であるが、遺体は時として直視できない場合もあるそうである。つい最近までは、これら遺体を警察署駐車場で包帯を巻き、一輪の花を供え、遺族に引き渡していたとも聞いた。白骨・腐乱死体なども中にはあったと聞いた。最初の頃は臭気が取れず困ったらしい。警察官の仕事は思っていた以上に厳しいものであった。この兄は、小学校の頃から将来は警察官になるといっていた。庭先に在った樹齢40年程の日向夏みかんの木に長さ1mの木を紐で吊るし、手作りの竹刀で「面・籠手・胴」と叩いていた。夢を叶えた唯一人の兄弟である。退職後、週に4〜5日程度働き、余暇時間を農家から農地を借りて野菜作りに励んでいる。「良治居るか」とよく電話がかかってくるが、決まって自慢の手作り野菜を持ってきてくれる。警察官として、約40年間本県の治安のためを一念に必死に勤め「賞味期限」が切れてしまったが、今後は、家族の幸せのため、自分自身の「賞味期限」が切れるまで、楽しい日々を過ごして欲しいものである。退職おめでとう。そして、ありがとうございました。弟より。



2008年4月24日(木)    子どもは宝



「妹が困っている。相談に乗って頂きたい」と電話があった。早速、連絡のあった妹さん宅を訪問した。生憎娘さんが不在で、ご両親が娘さんの相談内容を話していただいた。娘さんの相談の前に、自分の身体の事を話し始められた。「がんを罹患されていること、難聴者であること」等であった。確かに補聴器をつけておられた。相談の内容を要約すると、娘の子どもが難聴児のため、週に2回都城聾学校へ就学前訓練に通っているが、娘が、過労で体調を崩している。近くに施設はないのか、難聴障がいのほか、2〜3の病気もある。とのことであった。この相談については、総合発達支援センター、子ども療育センターなどを紹介した。話の過程の中で、娘は離婚をしていること、離婚原因は、元夫の両親から、「孫が難聴児なのは、遺伝だ」原因は、そちらにある。と攻められた。と、あった。今までも沢山聞いてきた。よくある話である。批判覚悟で言うならば、子どもを産む側に責任を転嫁し、急場を回避しようとする男の無責任さではないかと考える。女性は、自分が産んだ子どもである。回避行動は選択肢として安易に選択しない。しかし、現状の育児・障害児等の福祉環境実態から多くの苦難が始まる。最悪の場合は、育児ノイローゼなどによって無理心中となる。最近、不幸にも多発している。勿論、実行者「犠牲者」は圧倒的に女性である。▲この世に生を受けて誕生した「赤ちゃん」。確立として2〜3%が障がい児として生まれる。障がい児として生まれたことが「不幸」であろうか? 何故、責められなければならないのか? 昔の話であるが、私たちに子供が誕生した時、「足は付いているか!五体満足か!」と聞かれた。内心「バカか!」と思ったが、「ちゃんと付いている」と答えた事を思い出す。本県の場合、確かに障害児・者に対する福祉、教育、就労等の環境整備は十分でない。よって、相当の保護者苦労が強いられていることも事実である。でも、今を変えようと必死で頑張っている方々も沢山いる。そして、確実に変りつつあることも事実である。▲障がい児として生まれたことが「不幸」ではない。「不幸への道を回避可能な手段が社会システムとして確立されていない」から、「不幸」にさせられていると思う。であるならば、回避可能な手段を社会システムとして確立する為に「声」を出し合おうではないか!全ての「赤ちゃんは宝」であるために。



2008年4月17日(木)    涙も出ません



 4月から子ども療育センターの小児科医師が辞職された。行政への保護者の不安・不信は倍加された。その窮状を伝えるメールが届いた。


【お疲れ様でした(^^)今日は、良い 場 が設けられ 感謝・感謝です♪ 今日は泣かずに、話が出来ました(^^;)  というより流す涙も出ません‥ 障害福祉課の方々にも、 声も張れ
ないほどの ショックです、と伝えました。 センターに 小児科医がいない なんて、考えられない です‥ ホントに 考えられない‥ 溜め息しか出ないです‥ 今か
ら、センターでショート利用の説明会があり、その後 子供のリハビリがあります♪
子供の前では、親の不安を悟られないよう努めねば、と思います。 大人の事情で
子供を巻き添えには したくないですね‥ 心がそう思います‥ ではまた おめかし して事務所に伺います(^○^)】



本当に「ごめんナ」あなたが、笑えば笑うほど、強烈な思いを感じます。
また、泣けば 泣くほど「親」の子に対する 愛の深さを知ることになります。
知れば 知るほど、無力さと途方もない孤独を体感します。
これから開放される時は来るのだろうか?
来るとすれば何時だろうか?
来るとすれば、何をすればいいのだろうか?と、
あり地獄の中で、自問自答が始まります。
この様な生活から抜けたい。と思うこともあります。でも、兵庫県での行政サービスが、今日の私を創ってくれた。
ならば、「兵庫県での行政サービスを宮崎で」との思いから、走って30年が いつの間にか流れてしまった。早いものです。
走り続けた後に何が残ったか? 
何も残ってない。だって「あなたの涙は、今日もまた 流された」
あなたの苦労は「今も極限状態にある」。
私の、終わりは、「あなたの涙が、母として、子どもの成長を見て、感動の涙に変るとき」。
私の、終わりは、「あなたの苦労が 普通の母としての苦労に変わった時」。
と、考えました。
実にくだらない、臨時議会の駆け引きの中に身をおき、クタクタに疲れた身を起こしてパソコンを開き、あなたのメールを見て感じたままです。



2008年4月10日    えんどう豆



▲私は、えんどう豆が大好きである。3年ほど前に、息子さんの相談で我が家にお見えになったご両親が「外山さんは何がお好きですか」と聞かれたので、「えんどう豆とサトイモ」と答えたところ、今の時期になるとえんどう豆が届くようになった。その方は、退職金で畑を購入し、奥さんと旬の野菜を作るのが唯一の楽しみであると話されていた。どうせ作るのなら、人から喜んで食べて頂けるものを、との思いで毎年、四季折々の野菜を頂いている。美味しいえんどう豆もその一つである。今年も、美味しいえんどう豆を頂き家内が剥いていた。おぼんに剥いているえんどう豆の音が「コロン、コロン」と可愛い音をたてている。家内が「ご両親の思いは深いね」と呟いた。確かにそうだと思った。勿論、「もう結構ですから、私のことは忘れてください、議員としての仕事をやっただけですから」ときつく断っているのですが、今日も届いた。夕食に「えんどう豆」が食卓に並んだ。一つひとつ箸につまんで口に運んだ。少し悲しい気持ちになった。▲「誰でもよかった、ただ、人を殺してみたかった」に象徴されるように、考えられない事件・事故が連日報道されている。殺す人間も、殺される人間も、誕生した時は両親の祝福のもと誕生していると思う。そして、子に対する愛情は歳を重ねても普遍であると思う。「えんどう豆」でも実感した。ただひたすら「子どもの為に」を日々祈りながら、時を重ね生涯を閉じることになる。▲しかし、警察に於ける変死体取扱い総数は、平成18年は、1,402体、19年は、1,440体と前年と比較して39体増加している。平成19年は、10年前の、平成10年の871対の比べ、569体、約1.65倍の増加となっている。変死体の死因は、病死、自殺、孤独死等が上位を占めている。どれ一つとっても悲惨である。「ただひたすら、子どものために」と頑張った。でも、誰からも看取られることなく、死んで逝った人間が年間1,440人もいる。それも増加している。▲人口は減少している。しかし、その一方で世帯数は増加している。このことは独居老人化現象がより一層進行している証しである。療養病床群の介護型廃止、は介護難民を必然的に誕生させる。後期高齢者医療制度は医療抑制化への選択者の増加を生む。中山間地域の高齢化率は増加していが、有病率の高い地域の医師不足は年々深刻化している。こうして見ると、医療・福祉環境は決して芳しくない。今後とも、「変死体」等の増加が懸念される。ひとり寂しく死んだ遺体が何を語っているのか、今、生きている人間は真剣に考える義務がある。





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